墨染の袈裟を着けて数珠(じゅず)をとる僧侶が、背障のある牀座(しょうざ)に坐り、手前の経机に浄土三部経(『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』『阿弥陀経(あみだきょう)』)を置く。上部の色紙形賛文は浄土真宗宗祖・親鸞(しんらん)が著した『尊号真像銘文』からの引用と推測され、右の短冊銘により「釈明空法師」と像主の名前が判明する。「明空(みょうくう)」については、出家後に親鸞の有力な弟子として常陸国(ひたちのくに)で活動した鎌倉幕府の御家人・三浦胤村(みうらたねむら)(一二二五〜一二九七)と長らくみなされてきた。しかし近年、本図を伝えた滋賀・仏心寺(ぶっしんじ)が属する浄土真宗仏光寺派の影像である可能性が提示されている。
(谷口耕生)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.273, no.192.
明空が墨衣墨袈裟を着し、大きい屏障のある牀座に、両手で数珠をつま繰り、暈繝縁の上畳を敷いて坐している。膝前の経几には、『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』の浄土三部経が置かれている。像主の大きい鼻、強く結ばれた口唇、高い頬骨など特徴ある面貌が活写される。描線・彩色ともに本格的な施工であり優れている。
こうした形式の大幅の祖師像は真宗教団の中で広く描かれており、時代はやや降るものの京都・高林寺、大阪・光用寺、広島・宝田院などにも同形式の画像が伝わっている。上部の色紙形に賛銘が墨書されるが、剥落著しく全文の判読は困難である。但しわずかに判読される「必得往生」によって、おそらく『尊号真像銘文』(親鸞著)に録される善導による「言南無者」以下八行が書されていたものと推測される。
向かって右に「釋明空法師」と墨書した短冊形がある。明空の伝記はあまり明らかではないが、一説に三浦胤村(1225~1297)のこととし、宝治元年(1247)の三浦氏滅亡に際して出家し親鸞の弟子になり、のち常陸国下妻小島に光明寺を創建したという。また一説に滋賀・仏心寺の開基であり、『親鸞聖人門侶交名牒』に「尼善妙─明空」とある人であるとする。本図はその仏心寺に伝来した。
(梶谷亮治)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.318, no.174.


























