藤原氏の祖である藤原(中臣)鎌足(六一四―六九)の肖像。左右には鎌足の子息である藤原不比等(ふひと)と、僧・定恵(じょうえ)が描かれている。鎌足を中心に子息を左右に配する本図のような図像は、多武峯曼荼羅(とうのみねまんだら)とも呼ばれ、鎌足をまつる奈良・多武峯(とうのみね)の談山神社(たんざんじんじゃ)を中心に描かれ、藤原氏の子孫等から礼拝された。
本図は修理銘の記述から、室町時代の永正十二年(一五一五)正月十六日に描かれ、多武峯の本所があった平等院に伝来していたことが知られる。十六世紀の奈良らしい画風で、描かれた年代が分かる作としても貴重である。
(北澤菜月)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.270, no.176.
奈良・談山神社の祭神とされる藤原氏の祖・鎌足(六一四~六九)の肖像画。左足を踏み下げ両手で笏を執る鎌足の姿を中央に大きく描き、向かって左下に鎌足の子息である不比等(ふひと)、右下に同じく子息である僧形の定貞(じょうえ)の三人が、上畳上の床座に坐る姿を描く。その背後には、巻き上げられた御簾の上に三面の御正体とみられる鏡がかかり、赤く装飾的な戸張をたくし上げた奥に、藤がからみつく松(天皇家に寄り添って政権を支える藤原氏を象徴)を描いた衝立がのぞいている。こうした神像として荘厳を調えた形式の鎌足像を、通称「多武峯曼荼羅」と呼んでいる。形式面に加え、鎌足の気品のある顔立ち、良質な顔料を用いた色鮮やかな彩色、截金・金泥を多用する精緻な文様表現などから、本品は数多い鎌足画像の中でも代表作といえるだろう。表背の墨書銘により、永正十二年(一五一五)正月十六日に描かれ、多武峯の本所があった平等院に伝来したことが判明することも貴重である。さて、談山神社の前身である多武峯聖霊院に御神体として安置された鎌足の本像は、中世以降しばしば御破裂を起こす霊像として畏怖され、現存する鎌足像がとる半跏踏み下げという像容も聖霊院像に基づいたと考えられる。興福寺の維摩会を創始したといわれる鎌足は維摩の化身として信仰されたが、同じく維摩を本地仏とする園城寺の鎮守・新羅明神を描いた画像には、鎌足像を規範として半跏踏み下げの姿形をとるものが多いといわれる。すなわち本品を含む神像として描かれた半跏の鎌足像は、維摩の垂迹神として礼拝されていたのだろう。
(谷口耕生)
神仏習合-かみとほとけが織りなす信仰と美-, 2007, p.297








