大安寺の礎を築いた僧、道慈の肖像画。袈裟を着け、両手で如意を執り、左斜め方向を向いて礼盤(らいばん)の上に坐す姿を描く。ハの字の眉に鷲鼻といった個性的な顔立ちで、口は少し開いている。顔や首元に皺が刻まれた老相である。若干形式化した衣文線、織り目の粗い絹を用いている点などにより室町時代の作と考えられるが、開口して説法する様子を表す形式は古様の祖師像にたびたびみられることから、依拠する古図があったものと指摘されている。道慈の肖像画は他に作例が知られておらず貴重である。聖徳太子像と対幅のかたちで額安寺(がくあんじ)(奈良県大和郡山市)に伝わった。
道慈は大和国(やまとのくに)添下郡(そうのしもぐん)の人で、額田氏(ぬかたし)の出身。大宝二年(七〇二)、遣唐使に同行して唐に渡り、長安の西明寺に止住して三論(さんろん)に精通した。在唐中、宮中で『仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)』を講じる高僧百人のなかに選ばれたという。養老二年(七一八)に帰国し、天平元年(七二九)に律師に補されている。聖武天皇の勅により大安寺の改造を担い、その手腕を匠らが感服したと伝えられる。天平九年(七三七)には、大安寺の大般若会(だいはんにゃえ)を勅会とするよう奏請し許された。このほか国分寺建立の思想的根拠となった『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』を請来し、大極殿(だいごくでん)においてその講師を務めるなど、道慈が奈良時代の仏教界に残した功績は大きい。天平九年に七十余歳で示寂(じじゃく)した。
聖徳太子像と本図が伝来した額安寺は鎌倉時代以降、大安寺の前身で太子が建立したという熊凝寺(くまごりでら)にあたると伝承された。額安寺は道慈の出身氏族である額田氏の氏寺(うじでら)で、その創建は飛鳥時代にさかのぼるとみられている。道慈がつくった虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本尊とし、道慈によって寺号が額田寺(ぬかたでら)から額安寺に改められたという(額安寺大塔供養願文)。本図は、大安寺と額安寺の関係性を示すものとして注目されよう。
なお額安寺は十三世紀半ば頃には古代以来の氏寺の枠を越え、所領の寄進や入寺などを通じて周辺地域の人々との関わりを深めていく。さらに嘉元元年(一三〇三)には、別当職(べっとうしき)の寄進により西大寺末の律宗(りっしゅう)寺院となった。しかし本図の存在から、このように寺の性格が変化した後も、聖徳太子とともに道慈が変わらず祖師として礼拝されていたことがうかがわれる。
(萩谷みどり)
大安寺のすべてー天平のみほとけと祈りー. 奈良国立博物館, 2022.4, p.174, no.70.
聖徳太子像は、両手で笏を持ち、刀を身に着けた姿で正面向きに褥の上に座る聖徳太子、道慈律師像は如意を持ち、少し左を向いて格狭間のある礼盤に敷かれた褥の上に座る道慈律師を描く。二幅一具で、もと額安寺に伝来した。
聖徳太子は赤い袍に身をまとい、漆紗冠を被り、手に笏を持って佩刀し、正面を向いて座る壮年の姿である。箱書にも記されているように、これは法隆寺で「水鏡御影(みずかがみのみえい)」と呼ばれる形式である。この姿の聖徳太子画像は、法隆寺や四天王寺などに鎌倉時代以降の例が伝わり、本図は画絹や描写から室町時代の作と考えられる。
道慈律師は、両手で如意を持ち、礼盤上で斜めを向き、口を少し開く姿である。奈良時代の三論僧である道慈(?~七四四)は、入唐して一六年にわたり長安西明寺に滞在し、帰国後は日本の仏教界の整備に尽くした南都の高僧である。その肖像は稀少だが『今昔物語集』には大安寺金堂の東登廊に影像があるとの記述があり(巻第十一第五)、鎌倉時代には東大寺における三論復興に際してその影像が描かれた可能性も高い。本図もこうした伝統的な図像を踏まえて、室町時代に描かれたと考えられる。
両幅が伝来した額安寺は、鎌倉時代に叡尊や忍性が入って律院化するが、この頃には、もとは聖徳太子が建立した熊凝精舎(くまこりしょうじゃ)の跡地であり、そこに道慈が求聞持本尊である虚空蔵菩薩像を安置したのが始まりと語られる。この二幅の肖像はそうした由緒に基づき、同寺の祖師の姿として礼拝されたのであろう。
二幅の製作は画絹の質や表現様式から同時期とみられる。法量もほぼ同じであるが、聖徳太子は上方、道慈律師は上・下に大幅な補絹があって、江戸時代の修理の際に揃えられたものと思われる。保存状態から推しても常に一対で懸け用いられたのではないようで、対で礼拝するために製作されたかは定かでない。しかし、どちらの幅も過去には丁寧な修理が行われており、寺内で大切にされていたことがわかる。
(北澤菜月)
忍性-救済に捧げた生涯-. 奈良国立博物館, 2016.7, p.228, no.21.
道慈(?~七四四)は奈良時代を代表する学問僧。粟田真人(あわたのまひと)を大使とする第八次遣唐使の一員として大宝二年(七〇二)に入唐を果たし、長安の西明寺に止住して広く経典を学んで、特に三論宗の精通したという。養老二年(七一八)の帰朝に際しては、漢訳されて間もない『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』を請来しており、同経典は天平十三年(七四一)の勅によって諸国に設置された国分寺の思想的裏付けともなった。さらに大安寺の平城京への移建、護国の法会として重視された大般若会(だいはんにゃえ)の勅会化、後の菩提僊那(ぼだいせんな)や鑑真(がんじん)の来朝につながる戒師招請計画を推進するなど、奈良時代の国家仏教建設に多大な役割を果たし、天平元年(七二九)には律師に任じられている。本品は、道慈の出身氏族である額田氏(ぬかたし)の氏寺・額安寺(がくあんじ)に、聖徳太子摂政像と対幅の形で伝来した。当時の供養願文に依れば、道慈は虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を本尊とし、寺号を額田寺から額安寺に改めた人物とされており、当寺を創建したという聖徳太子とともに寺内の祖師供などで懸用されたのだろう。図は、衣に袈裟を着けて如意を執り、礼盤(らいばん)上に褥(じょく)を敷いて斜めに坐す道慈を描いている。口をやや開いて説法する様を表すことは、古様の祖師像にしばしば見られる形式であり、由緒のある古図が典拠となっているのかもしれない。
(谷口耕生)
平城遷都一三〇〇年記念 大遣唐使展, 2010, p.325

