壮年の聖徳太子を描いた画像。巾子冠(こじかん)を戴き、朱の衣を着け、佩刀(はいとう)して両手で笏(しゃく)を執り、敷物の上に正面向きに坐す姿である。この形式は摂政時代の聖徳太子を表したものとされる。絹の損傷や顔料の剝落のために見づらくなっているものの、面貌は端正で、帯に表された斜格子文や、敷物の内区にあしらわれた銀色の唐草文など細部も丁寧である。絵絹の織り目がやや粗いことや、同形式の聖徳太子像のうち鎌倉時代後期にさかのぼるとみられる法隆寺本と比較して衣の輪郭に簡略化が認められる点などから、室町時代の作と考えられる。道慈律師(どうじりっし)像と対幅のかたちで額安寺(かくあんじ)(奈良県大和郡山市)に伝わった。
大安寺伽藍縁起幷流記資材帳では、大安寺は聖徳太子の建てた熊凝村(くまごりむら)の道場にはじまると説かれる。病床の聖徳太子から熊凝寺を譲られた田村皇子(たむらのみこ)、後の舒明天皇(じょめいてんのう)は、即位して後に百済川の側に、大安寺の前身寺院である百済大寺(くだらのおおでら)を造営したという。本像が伝来した額安寺こそ、この熊凝寺と伝承されてきた寺院である。
額安寺は、大安寺の造営に尽力した高僧・道慈の出身氏族である額田氏(ぬかたし)の氏寺(うじでら)で、もとは額田寺(ぬかたでら)と称した。額安寺を熊凝寺とする説は、法隆寺僧の顕真(けんしん)が鎌倉時代中期に著した『聖徳太子伝私記』において現れる。平群郡(へぐりぐん)に位置したとされた熊凝寺が(『日本三大実録』元慶四年[八八〇]十月廿日条)、同地にあり、かつ道慈とゆかりの深い額安寺と結びつけられたものであろう。実際には額安寺を熊凝寺とする確証はなく、百済大寺の起源を熊凝寺とすることについても百済大寺を聖徳太子と関連づけるための説話であるとみる向きもある。
いずれにしても中世には、聖徳太子建立の熊凝寺の後身である額田寺に道慈が移住し、額安寺と寺号を改めたと理解されるようになる(嘉元三年十月二十七日額安寺大塔供養願文案、延慶三年十二月二十一日慈信金岡東荘寄進状等)。本像と道慈律師像は画風が異なり、当初から一対のものとして制作されたかは定かではないが、右のような伝承を体現する作品として注目される。
(萩谷みどり)
大安寺のすべてー天平のみほとけと祈りー. 奈良国立博物館, 2022.4, p.153, no.1.
聖徳太子像は、両手で笏を持ち、刀を身に着けた姿で正面向きに褥の上に座る聖徳太子、道慈律師像は如意を持ち、少し左を向いて格狭間のある礼盤に敷かれた褥の上に座る道慈律師を描く。二幅一具で、もと額安寺に伝来した。
聖徳太子は赤い袍に身をまとい、漆紗冠を被り、手に笏を持って佩刀し、正面を向いて座る壮年の姿である。箱書にも記されているように、これは法隆寺で「水鏡御影(みずかがみのみえい)」と呼ばれる形式である。この姿の聖徳太子画像は、法隆寺や四天王寺などに鎌倉時代以降の例が伝わり、本図は画絹や描写から室町時代の作と考えられる。
道慈律師は、両手で如意を持ち、礼盤上で斜めを向き、口を少し開く姿である。奈良時代の三論僧である道慈(?~七四四)は、入唐して一六年にわたり長安西明寺に滞在し、帰国後は日本の仏教界の整備に尽くした南都の高僧である。その肖像は稀少だが『今昔物語集』には大安寺金堂の東登廊に影像があるとの記述があり(巻第十一第五)、鎌倉時代には東大寺における三論復興に際してその影像が描かれた可能性も高い。本図もこうした伝統的な図像を踏まえて、室町時代に描かれたと考えられる。
両幅が伝来した額安寺は、鎌倉時代に叡尊や忍性が入って律院化するが、この頃には、もとは聖徳太子が建立した熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)の跡地であり、そこに道慈が求聞持本尊である虚空蔵菩薩像を安置したのが始まりと語られる。この二幅の肖像はそうした由緒に基づき、同寺の祖師の姿として礼拝されたのであろう。
二幅の製作は画絹の質や表現様式から同時期とみられる。法量もほぼ同じであるが、聖徳太子は上方、道慈律師は上・下に大幅な補絹があって、江戸時代の修理の際に揃えられたものと思われる。保存状態から推しても常に一対で懸け用いられたのではないようで、対で礼拝するために製作されたかは定かでない。しかし、どちらの幅も過去には丁寧な修理が行われており、寺内で大切にされていたことがわかる。
(北澤菜月)
忍性-救済に捧げた生涯-. 奈良国立博物館, 2016.7, p.228, no.20.

