広々とした山水景観の中に、千体近くを数える地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が雲集する様子を描く。画面上方左寄りに御蓋山(みかさやま)と春日山および春日大社の朱塗り社殿が点在していることから、地下に地獄があると信じられた春日野を表していることがわかる。下辺中央には燃え盛る熱湯の釜から裸形(らぎょう)の亡者(もうじゃ)が救われる地獄道、右幅に大きく腹がふくらんだ餓鬼(がき)が坐(すわ)る餓鬼道、左端に黒牛が伏せる畜生道(ちくしょうどう)、上方右端に赤身四臂の阿修羅(あしゅら)が坐る阿修羅道、中央左端に土塀に囲まれた檜皮葺(ひわだぶき)の建物を描く人道、上辺左方に天女が横たわる天道を配しており、ここでは春日野の地が六道輪廻(りくどうりんね)の苦しみに満ちた穢土(えど)に見立てられている。六道の各々に一群をなして集まった地蔵たちが、今まさに衆生(しゅじょう)を救済するために影向(ようごう)した光景と考えられよう。地蔵はいずれも宝珠(ほうじゅ)と錫杖(しゃくじょう)を持って蓮華座(れんげざ)上に立つ通形に表され、肉身を丁寧に描き起こして一尊ずつ着衣の配色を変えるなど、非常に細やかな描写が見て取れる。起伏に富んだ春日山の形態は、鎌倉時代でも比較的早い時期の春日宮曼荼羅(かすがみやまんだら)に見られる特色であり、良質の画絹を用いることからも、本図の制作は十三世紀に遡(さかのぼ)ると考えられる。鎌倉時代後期成立の春日権現験記絵(かすがごんげんげんきえ)巻十六78第四段には、春日社三宮の本地仏(ほんじぶつ)である地蔵が春日地獄から罪人を救済するという信仰について、貞慶の高弟璋円(しょうえん)が語ったというエピソードをのせる。こうした春日三宮の地蔵信仰は、貞慶が鼓吹(こすい)したことによって鎌倉時代の南都を中心に広まったとされており、類例のない本図の特殊な図様もその影響のもとに成立したのだろう。
(谷口耕生)
解脱上人貞慶 鎌倉仏教の本流 御遠忌800年記念特別展, 2012, p.240
山水風景中に、宝珠(ほうじゅ)と錫杖(しゃくじょう)を持ち蓮華座(れんげざ)上に立つ通形の地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が多数表される。九百九十七体数えられるところから、千という数を意識して描かれたことと、画面が当初の全形を保っていることが認められよう。左辺の上寄りに、御蓋山(みかさやま)と春日山および山下の春日本社・若宮社・三十八所社の社殿を春日宮曼荼羅(かすがみやまんだら)の定形を踏まえて描いていることから、地蔵は本社第三殿の本地仏を示すとみなされる。御蓋山部分に六体配するのは、六地蔵の意と解され、それに呼応して図中に六道の描写も見られる。下端中央に熱湯の釜から救われた童子形の亡者(もうじゃ)たちを鬼たちが見る地獄(じごく)道、右端に大きい腹の餓鬼(がき)が飯を傍らに坐る餓鬼道、左端の少し上に牛が伏す畜生(ちくしょう)道、上部右端に阿修羅(あしゅら)が坐(すわ)る阿修羅道、上端に天人が倒れ伏す天道を配する。人道は確認しがたいが、春日社の下辺の殿邸がそれにあたるかと思われる。六道の各々に地蔵を雲集させ、救済の強力さを表している。類例のない作品であるが、信仰の実態が分明でない春日の千体地蔵について、優れた表現で鮮明な表象を形作る。
(中島博)
おん祭と春日信仰の美術. 奈良国立博物館, 2006, p.56, no.42.