紺紙に銀泥(ぎんでい)で界線(かいせん)を引き、金銀泥で一行ずつ交互に経文を書写した一切経(いっさいきょう)。奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の礎(いしずえ)を築いた藤原清衡(ふじわらのきよひら)(一〇五六〜一一二八)の発願(ほつがん)により書写され、「中尊寺経」と称される。諸史料から、永久五年(一一一七)頃から八年程かけて書写し、天治三年(一一二六)の中尊寺建立供養の前に完成させたと考えられている。調査により、不要になった文書を紺色に染めた料紙も利用されていることが確認され、紙は都周辺で調達されたと考えられている。
表紙は金銀泥で宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)を描く。同じく金銀泥による見返絵は、建物を背景に釈迦(しゃか)が正面を向く説法図(せっぽうず)である。
(斎木涼子)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.251, no.57.
紺紙に銀泥で界線を引き、金銀泥で一行ずつ交互に経文を書写した一切経。奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)の礎を築いた藤原清衡(ふじわらのきよひら)(一〇五六~一一二八)の発願により書写され、「中尊寺経(ちゅうそんじきょう)」と称される。広義の中尊寺経は、清衡の子である元衡(もとひら)が発願した千部の紺紙金字法華経、孫の秀衡(ひでひら)が発願した紺紙金字一切経を含むが、狭義の中尊寺経は、清衡発願の紺紙金銀交書一切経を指す。また、中尊寺経は近世に大部分が高野山に移されており、現在四千二百九十七巻(うち国宝指定四千二百九十六巻)が高野山金剛峯寺の所蔵となっている。天治(てんじ)三年(一一二六)三月二十五日の日付を持つ「藤原清衡中尊寺経蔵別当補任状」によれば、蓮光(れんこう)が「金銀泥行交一切経」を八年かけて奉行したとあり、この功績により蓮光は中尊寺経蔵所第別当職(べっとうしき)に任じられた。書写開始時期については、六十巻本華厳経(けごんきょう)巻第二・巻第十の奥書に永久(えいきゅう)五年(一一一七)二月に書写を開始したと記されるのが最も早く、別当補任状の記述と合わせて考えると、永久五年頃から八年程かけて書写し、天治三年の中尊寺建立供養の前に完成させたと考えられる。近年の調査により、反故(ほご)文書を紺色に染めた料紙も一部利用されていることが確認され、料紙は都周辺で調達されたものと考えられている。表紙は金銀泥で宝相華唐草文を描き、見返し絵にも金銀泥を用いる。見返し絵は、遠山や宝樹を背景に釈迦が正面を向く説法図が多いが、斜め向き説法図や、仏菩薩を描かず風景に人物や動物を配した構図なども見られ、また必ずしも経典の内容を反映したものではない。本展に出陳される経巻では、釈迦が斜めを向いて立つ説法図や四体の神将形に囲まれるもの、楼閣を背景とするものなどがある。
(斎木涼子)
まぼろしの久能字経に出会う 平安古経展, 2015, p.148
藤原清衡(1056~1128)が発願して書写させ、天治3年(1126)に創建された中尊寺へ奉納した紺紙金銀交書の一切経、いわゆる中尊寺経のうちの1巻。紺紙に金泥で界線を施し、金泥と銀泥で1行おきに交互に経文を書写している。表紙は紺紙に金銀泥で宝相華唐草文を表わし、見返しは紺紙に金銀泥で釈迦説法図を描いている。中尊寺経は、中尊寺金色堂と共に奥州藤原氏の栄華を今に伝える貴重な遺品である。
中尊寺経のうち『華厳経(六十巻本)』巻第二に永久5年(1117)2月の奥書があり、また天治3年(1126)3月25日付けの「中尊寺経蔵別当職補任状案」に「於自在房蓮光者、為金銀泥行交一切経奉行、自八箇年内書写畢」とあって、中尊寺経は永久5年(1117)から8年程かけて書写されたことが知られる。中尊寺経の当初の巻数は不明であるが、『貞元釈教録』に基づく5390巻に近い巻数であったと考えられている。現在、中尊寺には僅かに15巻を残すのみで、大半の4296巻(国宝)は高野山金剛峯寺に伝えられている。また観心寺に166巻(重要文化財)、東京国立博物館に12巻(重要文化財)があり、巷間に散在するものを合せれば、4600巻程度が現存していると考えられる。本巻はその中でも特に保存状態がよいものである。
(西山厚)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.303, no.115.