幡は寺の境内や堂内の柱などに懸ける旗。幡頭(ばんとう)(三角形の部分)、幡身(ばんしん)(縦長の長方形の部分)、幡舌(ばんぜつ)(幡頭の頂部から下がる帯)、幡手(ばんしゅ)(幡身の左右に下がる帯)、幡脚(ばんきゃく)(幡身の下部に下がる長い帯)で構成される。本品は絹製の幡で、多くは幡頭と幡身を残すのみだが、幡舌、幡脚や、わずかに幡手が残存するものも数点含まれる。金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)の三十二の菩薩を三十二旒の幡で表現していた(現存は十七旒)。身は三区に分け、上から種子(しゅじ)(梵字(ぼんじ))、三昧耶形(さまやぎょう)(器物)、尊像を表すが、これは一体の菩薩を三種の姿で表現したもの。三区はそれぞれ刺繡で表され、三区の仕切りの帯と身の縁は銀襴(ぎんらん)を用いている。兵主大社(ひょうずたいしゃ)(滋賀県)伝来。
(内藤栄)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.262, no.120-1.
幡は仏殿内の柱や天蓋(てんがい)に懸(か)け、また堂外の庭に立て飾って仏菩薩を荘厳(しょうごん)する。中世の幡には金銅製やガラスを手足に付けた玉幡もあるが、裂(きれ)製の幡も多くの遺品が知られる。そのなかには刺繍を施しているものがあり、中世の刺繍技術を考察するうえで欠かすことのできない存在である。
本品は、仏・菩薩を器物の姿をかりて表現する三昧耶形(さまやぎょう)を表す三昧耶幡として著名な品である。現在十七旒(りゅう)が幡の形を保っているが、外れた裂片や金具も多数遺っており、それらを勘案すると、もとはそれぞれ表裏同文様で一旒につき一尊を表し、金剛界(こんごうかい)三十七尊のうち如来を除いた三十二の菩薩を表すものであった。幡には大小あり、大幡は四波羅蜜(しはらみつ)と内四供養(ないしくよう)の諸菩薩であったとみられる。
頂部には蓮華文(れんげもん)の金具を取り付け、幡頭の鏡部分は黄綾地(きあやじ)に卍字を繍う。三坪に分かれた幡身は、各坪はそれぞれ色を変えた綾地で、黄色の撚糸(よりいと)で上飾(うわかざ)り繍(ぬい)し、中央に円相を綴じ付ける。円相内には第一坪に種子(しゅじ)、第二坪に三昧耶形、第三坪に尊形を刺(さ)し繍(ぬい)で表す。いずれも蓮台(れんだい)上にのり、それぞれの蓮台の色は異なる。縁(ふち)と堤(てい)には銀襴(ぎんらん)を取り付けており、幡の大小で色と文様を変えている。幡頂部から垂下させた舌(ぜつ)は、淡茶色の文紗(もんしゃ)に印金(いんきん)で円形花文を表す。幡手は残るものは少ないが、紗を用いていたとみられる。幡足は四条で、淡茶と濃緑の文紗を交互に重ねている。
本品の内部からは九片の墨書片が発見されており、現在は一枚の紙に貼られている。その中の一片「奉行上卿前中納言正三位藤原朝臣隆長」は、『公卿補任(くぎょうぶにん)』によれば隆長が前中納言正三位であったのは元亨三年(一三二三)六月十六日から正中二年(一三二五)六月二十三日までの二年間であるため、本品の製作もその時期にあったと考えられている。
そのほか刺繍が施された方形裂二片も出陳する。それぞれ金剛愛菩薩(こんごうあいぼさつ)の種子コクと、金剛王菩薩(こんごうおうぼさつ)種子ジャクで、前者は下貼の糸が脱落しているため刺繍された面の裏をみることができる。
(田澤梓)
糸のみほとけー国宝 綴織當麻曼荼羅と繍仏-. 奈良国立博物館, 2018.7, pp.286-287, no.124.
幡身に種子、三昧耶形、菩薩形像を刺繍した幡。大きさに大小があり、大7旒、小10旒の計17旒が現在伝わる。失われた部分もあるが、三角形の幡頭、三坪からなる幡身、幡手、幡足、舌が備わる。幡頭は黄綾を用い、中央に卍を刺繍、円鐶をもつ金銅製金具を付け、金具の頂にはそれぞれ番号が刻まれる。幡身は坪ごとに異なる色(茶・萌葱・浅葱)の綾を用い、白綾で円相をつくって上から種子、三昧耶形、菩薩形像を刺繍しており、表裏に同図様を刺繍したものが張り合わされる。
各旒の種子、三昧耶形、菩薩形は同一の菩薩を表しており、図様は金剛界三十七尊のうち五仏を除く三十二尊(四波羅蜜菩薩、十六大菩薩、八供養菩薩、四摂菩薩)を1旒ごとに配したもので、四波羅蜜菩薩と外四供養菩薩にあたるものが大きく作られ、もともとは三十二旒であったと推測される。後世の修理のためか一部に図様や順序の錯綜が認められるが、幡の図様として非常に希少な作品である。
幡内から発見された墨書紙片のなかに「奉行上卿前中納言正三位藤原朝臣隆長」と記されたものがあり、藤原隆長の在位期間が元亨3年~正中2年(1323-25)であることから、製作時期を限定できる鎌倉時代の刺繍の基準作例としても貴重な作品である。
滋賀県野洲市の兵主大社旧蔵。
(永井洋之)

