真言宗の祖である弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)(七七四~八三五)の遺告で、真言宗の僧として守るべき事がらが二十五箇条にわたって記される。巻末に承和二年(八三五)三月十五日の作成日記が記され、第一条によれば死期をさとった空海が仏法の永遠の護持を弟子に託すために本書を記したことになっているが、文章は空海本人が描いたものではなく、本書はその没後に成立したものと思われる。ただし、最古の写本には安和二年(九六九)の年紀があるので、没後それほど時を経ずに作られたと推測される。本品はその写本で、暦応二年四月二十一日に真言宗僧の賢俊(けんしゅん)(一二九九~一三五七)が書写し、同年五月十六日に点校を加えたものである。奥書には、醍醐寺(だいごじ)に伝来していた古写本を、寛喜元年(一二二九)に真教(しんきょうが書写したものに、文永六年(一二六九)良済(りょうさい)が他本をもって校正を加え、さらにそれを賢俊が書写したとも記される。賢俊は、二十二箇年にわたって醍醐寺の座主を務めたほか、足利尊氏(あしかがたかうじ)の護持僧として活躍したことで知られる。
(野尻忠)
古密教―日本密教の胎動―, 2005, p.189
空海(弘法大師、774~835)が、入定の6日前にあたる承和2年(835)3月15日に門弟へ与えたとされる遺誡で、「御遺告」と呼ばれる。
その内容は、目前に迫った入定を予示すると共に、一宗の諸々の寺院の管理や運営に至るまで詳細に指示したものである。真言宗ではこれを規範とし、大切に伝えてきた。
本巻は、暦応2年(1339)4月21日に、醍醐寺座主の賢俊(1299~1357)が書写した古写本である。
賢俊は足利尊氏の御持僧として権勢を振るった真言宗の僧であるが、本巻の筆跡は賢俊の日頃の書風とやや趣を異にしている。これは書写に用いた親本の姿を尊重した結果と思われ、文中に見られる稠密な仮名・ヲコト点・連続符など、賢俊が本巻をもって證本としようとした跡がうかがえる。
(西山厚)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.308, no.139.