空海が、死期を悟って門弟のために遺したとされる遺言。本品は真言宗全体に関わるさまざまな事柄を二十五箇条にまとめたものである。空海の遺言とされるものは、弟子が筆記したとされるものも含め六種類残されている。実際には空海生前の著作ではなく、遅くとも十世紀中頃までに、弟子らによってまとめられたものと考えられている。現在確認されている二十五箇条遺告の最古写本は、金剛寺所蔵の安和二年(九六九)書写本である。
二十五箇条の遺告の第一条では、空海の幼少時からの経歴、仏教を志した経緯、入唐(にっとう)、真言宗の成立についてまとめる。続いて、真言密教の教義、東寺などの寺院運営、真言僧の心得、真言宗に伝わる秘宝・如意宝珠(にょいほうじゅ)の存在などについて、詳細な説明や指示がある。本人の著したものではないとはいえ、空海が重んじていた事項がある程度反映されたものではあるだろう。成立以降、真言宗僧侶の拠るべき規範、基準として権威を持ち、非常に重んじられた。いわば弘法大師信仰の原点ともいえる史料である。
本品は醍醐寺(だいごじ)の賢俊(けんしゅん)による南北朝時代の写本である。
(斎木涼子)
空海 密教のルーツとマンダラ世界. 奈良国立博物館, 2024.4, p.281, no.110.
真言宗の開祖である弘法大師空海(くうかい)(七七四~八三五)が、死期を悟って門弟のために記したとされる二十五箇条の遺言。真言宗の成立、教義、寺院運営、秘宝・如意宝珠(にょいほうじゅ)の存在に到るまで、詳細な解説、指示がある。後に真言宗の規範、基準として権威を持ち、重んじられた。実際には空海生前の本人の著作ではなく、十世紀頃、東寺に関係ある真言僧によってまとめられたものと考えられている。
遺告の八条目にあるのが、「吾後生の弟子門徒等大安寺をもって本寺と為すべき事の縁起」である。これによれば、大安寺は兜率天(とそつてん)、そして祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)のようであり、尊像の釈迦は「即智法身之相」である。そして空海の師である石淵僧正(いわぶちそうじょう)(勤操(ごんぞう))が大安寺を本寺とし、その弟子たちはみなそこに住んでおり、空海も大安寺を本寺としていた。その後、空海は勅命により東大寺に南院(真言院)を建立したので、その後の空海の新弟子たちは東大寺に住んでいたという。先師の御寺である大安寺は勝地であるので、わが弟子・門徒らは大安寺を本寺として釈迦に奉仕し、大安寺西塔院を根本とすべきである、と記されている。
少なくとも十世紀頃には、真言宗において大安寺が特別視されており、勤操が重要な先師の一人とされ、大安寺そのものが一種の聖地のように認識されていたことがわかる。
(斎木涼子)
大安寺のすべてー天平のみほとけと祈りー. 奈良国立博物館, 2022.4, pp.179-180, no.87.
真言宗の開祖である弘法大師空海(くうかい)(七七四〜八三五)が、死期を悟って門弟のために記したとされる二十五箇条の遺言。真言宗の成立、真言密教の教義、寺院運営、真言宗に伝わる秘宝・如意宝珠(にょいほうじゅ)の存在に到るまで、詳細な解説、指示がある。後に真言宗の規範、基準として権威を持ち、重んじられた。実際には空海生前の本人の著作ではなく、十世紀頃に、東寺に関係ある真言僧によってまとめられたものと考えられる。本品は醍醐寺(だいごじ)の賢俊(けんしゅん)による南北朝時代の写本。
(斎木涼子)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.255, no.79.
真言宗の祖である弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)(七七四~八三五)の遺告で、真言宗の僧として守るべき事がらが二十五箇条にわたって記される。巻末に承和二年(八三五)三月十五日の作成日記が記され、第一条によれば死期をさとった空海が仏法の永遠の護持を弟子に託すために本書を記したことになっているが、文章は空海本人が描いたものではなく、本書はその没後に成立したものと思われる。ただし、最古の写本には安和二年(九六九)の年紀があるので、没後それほど時を経ずに作られたと推測される。本品はその写本で、暦応二年四月二十一日に真言宗僧の賢俊(けんしゅん)(一二九九~一三五七)が書写し、同年五月十六日に点校を加えたものである。奥書には、醍醐寺(だいごじ)に伝来していた古写本を、寛喜元年(一二二九)に真教(しんきょう)が書写したものに、文永六年(一二六九)良済(りょうさい)が他本をもって校正を加え、さらにそれを賢俊が書写したとも記される。賢俊は、二十二箇年にわたって醍醐寺の座主を務めたほか、足利尊氏(あしかがたかうじ)の護持僧として活躍したことで知られる。
(野尻忠)
古密教―日本密教の胎動―, 2005, p.189
空海(弘法大師、774~835)が、入定の6日前にあたる承和2年(835)3月15日に門弟へ与えたとされる遺誡で、「御遺告」と呼ばれる。
その内容は、目前に迫った入定を予示すると共に、一宗の諸々の寺院の管理や運営に至るまで詳細に指示したものである。真言宗ではこれを規範とし、大切に伝えてきた。
本巻は、暦応2年(1339)4月21日に、醍醐寺座主の賢俊(1299~1357)が書写した古写本である。
賢俊は足利尊氏の御持僧として権勢を振るった真言宗の僧であるが、本巻の筆跡は賢俊の日頃の書風とやや趣を異にしている。これは書写に用いた親本の姿を尊重した結果と思われ、文中に見られる稠密な仮名・ヲコト点・連続符など、賢俊が本巻をもって證本としようとした跡がうかがえる。
(西山厚)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.308, no.139.

