兀庵普寧(1197~1276)が、中国へ帰ってから後の咸淳6年(1270)仲春に、京都賀茂の正伝寺の東巌慧安へ宛てた書状。
料紙には蓮池模様のある蝋牋を用いており、戊辰年(1268)に双林寺に至った本覚上人(東巌慧安の弟子)より東巌慧安の書状を受け取ったことへの御礼や、近況を述べ、本覚上人が日本へ戻るに際してこれを書き記した旨を記している。文中には、二上殿(二条良実)や南殿(北条時輔)など旧知の人々へ祝意を伝えてほしいとあり、かつての交遊関係を示して注目される。
兀庵普寧は無準師範の弟子。文応元年(1260)に来朝し、北条時頼の要請を受けて建長寺に住したが、時頼の死後は理解者を得られず、文永2年(1265)に帰国した。この墨跡は兀庵普寧の帰国後の動勢を伝えたもので、日中禅林交流史上に価値が高い。
(西山厚)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.309, no.144.
兀庵普寧が中国へ帰ったのち、京都加茂の正伝寺の東巖慧安(とうがんえあん)(一二二五‐七七)にあてた書状。料紙には蓮池模様の蠟牋(ろうせん)を用いており、七十四歳の時の書である。その内容は、雙林寺に来た慧安の弟子の本覚上座から慧安の書状を受け取って嬉しかったこと、無準師範の塔所(たっしょ)の万年正続院に止住したこと、時節は不安定で、早く閑居してひたすら仏法に励みたいこと、旧知の二条良実や北条時輔などに会ったらよろしく伝えてほしいことなどを述べ、本覚上座は帰国するにあたってこの書状をしたためたことを記している。兀庵普寧の書は雄渾で格調高く、峻厳な禅風をうかがわせるが、この書状には、日本の弟子や知人に対する親愛の情があふれている。
(西山厚)
鎌倉仏教―高僧とその美術―, 1993, p.232-233