もとは一巻の絵巻であった五幅の絵画。疫病や災いを引きおこす鬼とたたかう神々を、勇ましくもユーモラスな姿で描く平安絵巻の傑作である。鬼を酢に漬けて食い疫病を退散させる「天刑星(てんけいせい)」、幼児の命を奪う悪獣を戟に突き刺す「栴檀乾闥婆(せんだんけんだつば)」、朝に三千、夕に三百の鬼を食らう大食漢の「神虫(しんちゅう)」、唐の玄宗皇帝の病を治したことで名高い「鍾馗(しょうき)」、仏法を邪魔する鬼を矢で射る「毘沙門天(びしゃもんてん)」。とくに「天刑星」「神虫」は他に作例のない特異な尊像であるため、これらを描いた絵巻の主題については様々な見解がある。ひとつは本館所蔵「地獄草紙」(644-0)、東京国立博物館所蔵「餓鬼草紙」、京都国立博物館所蔵「病草紙」とともに、後白河法皇(ごしらかわほうおう)(一一二七〜一一九二) が蓮華王院宝蔵(れんげおういんほうぞう)に納めた六道絵の一つとする見解で、かつては地獄を描いたものと見なされていた。一方で、古来中国で信仰された善神による悪鬼退治が主題だとする説があり、現在「辟邪絵」と呼び習わされている。退治される鬼の側に視点を移し、鬼として生まれた者の苦しみを描くとして、後白河法皇の六道絵のひとつとして捉え直す見解もある。
幕末に、現在奈良博所蔵の「沙門地獄草紙」と一組として大坂の書画商によって江戸に持ち込まれ、壬申検査にも参加した絵師・柏木貨一郎(一八四一〜九八)の手に渡る。後に両巻とも益田鈍翁(一八四八〜一九三八)の所蔵となった。戦後に切断され、昭和五十九年(一九八四)に国有化、同年に重要文化財、翌年に国宝に指定。奈良博の所蔵となったのは平成二年(一九九〇)のことである。
(松井美樹)
超 国宝ー祈りのかがやきー. 奈良国立博物館, 2025.4, p.320.
もとは一巻の地獄絵として知られ、戦後に掛幅装(かけふくそう)となった。それぞれ詞書(ことばがき)と絵から構成され、天刑星(てんけいせい)、栴檀乾闥婆(せんだんけんだつば)、神虫(しんちゅう)、鍾馗(しょうき)、毘沙門天(びしゃもんてん)が鬼神を懲(こ)らしめる様を描写する。こうした存在は中国の古い伝統に連なり、全体としては、人間を不幸にする邪悪な鬼神を退治する神々を紹介するものとみなされる。そうした位置付けから現在の名がある。
書風や絵画表現から平安時代終わり頃の作と考えられ、画風や図像の関係性等から、同時期に製作されている「地獄草紙」や「餓鬼草紙」などと一連の作であった可能性が指摘されている。なお、近世には「沙門地獄草紙(しゃもんじごくぞうし)」(当館蔵)を含む地獄草紙と共に伝来した。
(北澤菜月)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.268, no.160.
もとは一巻であった絵巻を、戦後段ごとに分断したもの。分断以前は古くより沙門地獄草紙と一対で「地獄草紙」として伝来し、沙門地獄草紙を甲巻、本品を乙巻と呼び習わしていた。その後、本品が描くのは古来中国で信仰された善神による悪鬼撃退、すなわち辟邪の場面であるという説が提示されて以来、いまの名称が定着している。
各幅にそれぞれ描かれるのは次の五場面。天刑星(てんけいせい)が四本の腕で悪鬼を摑み、酢につけて喰らう場面、栴檀乾闥婆(せんだんけんだつば)が子どもの命を奪う悪獣たちの首を戟に串刺しにする場面、神虫(しんちゅう)が朝に三千、夕べに三百もの悪鬼を食べる場面、唐の玄宗皇帝の病を治したことで名高い鍾馗(しょうき)が、疫鬼を捕らえ目をくじろうとする場面、毘沙門天(びしゃもんてん)が法華経持者に近づく邪鬼を弓矢で射って退散させる場面の五つである。これらに加え、毘沙門天に勘当された鬼を描く福岡市美術館所蔵の断簡も、本品中の毘沙門天幅と画風が近いため、当初は同じ画巻であった可能性が指摘されている。
宋代の宮廷では、火薬を仕込んだ屛風を爆発させて厄除けを祈願する春迎えの行事があったが、その屛風には鍾馗が鬼を捕らえる図などが描かれていたという。こうした屛風の図様が日本に伝わり、平安時代には仏名会(ぶつみょうえ)(毎年年末に宮中・寺院で行われた懺悔の法会)で立てた地獄変屛風に受け継がれ、それが本品の源流となったことが論じられている。また、痛めつけられる悪鬼たちの「地獄」を描いた一種の地獄絵として、蓮華王院(れんげおういん)宝蔵(ほうぞう)に納められた六道絵のひとつであったという見解もある。
(伊藤久美)
源信 地獄極楽への扉. 奈良国立博物館, 2017.7, pp.278-279, no.72.
現在、五幅に分かれるが、本来は一巻の絵巻を成した。以前は益田家に伝わり「沙門(しゃもん)地獄草紙」と一組で「地獄絵詞」と称されていた。詞書は東京国立博物館所蔵「地獄草紙」、福岡市美術館所蔵「沙門地獄草紙」断簡と同筆とみる説があり、毘沙門天に仕える勘当の鬼を描く後者は、当初は辟邪絵として同じ画巻の一部であったとも指摘される。絵の順番は、分断以前に論文等で言及され、今日浸透しているものとは異なるが、分断時の絵巻自体、当初の姿をとどめていたかは明らかでない。ただし、ここでは従来の順番に即し、述べていくことにする。
各幅に描かれるのは古来中国で信仰された善神である天刑星(てんけいせい)、栴檀乾闥婆(せんだんけんだつば)、神虫(しんちゅう)、鍾馗(しょうき)、毘沙門天が邪鬼(じゃき)を懲(こ)らしめ撃退する場面である。天刑星は悪鬼を掴んで喰らい、栴檀乾闥婆は幼児の命を奪う悪獣の首を戟(げき)に突き刺す。一説には蚕(かいこ)の化身とも言われる神虫は、悪鬼を朝タ食べるという様。唐の玄宗(げんそう)皇帝の病を治したことで名高い鍾馗は本幅では疫鬼を捕らえ目をくじる姿を見せ、毘沙門天は法華経持者に近づく邪鬼を弓矢で射り退散させる姿である。
法華経持者を毘沙門天が擁護することは『法華経』陀羅尼品に説かれるが、「信貴山縁起絵巻」延喜加持巻には、命蓮の傍らの経机に六巻の法華経と思しき経巻が置かれ、毘沙門天を感得したという命蓮が法華経持者であることが示唆される。数ある命蓮伝のなかにも法華経持者としての命蓮を語るものがある。「信貴山縁起絵巻」と本品は、ほとんど同時代にそれぞれ毘沙門天信仰を表した絵画作例として興味深い。また、毘沙門天図は原図が唐時代に求められ、南都で図像が継承されたことも指摘されている。
平安時代に宮中で行われた仏名会(ぶつみょうえ)という懺悔(ざんげ)の儀礼では「地獄変御屛風」が立てかけられたことが知られ、本品はこれに関わる屛風の図様を伝えるとする説がある。
(伊藤久美)
信貴山縁起絵巻 : 朝護孫子寺と毘沙門天王信仰の至宝. 奈良国立博物館, 2016.4, pp.216-217, no.22.
もと一巻として伝来し、「地獄草紙」と称されていたこともあるが、地獄に関するものではなく、様々の悪鬼を退治する、由来も様々な善神たちを集める。古来中国で行われた辟邪、すなわち邪悪な鬼類を辟け除くための図絵の伝統に連なると考えられて、現在は仮に「辟邪絵」と称されている。仏教に無関係なものも含まれ、六道のいずれかに属するものもないが、形式が「地獄草紙」などと共通し、それらの中に本品と書風の一致する例も指摘されるところから、一連の作品であった可能性は否定できず、「六道絵」の一種とみなしてよいのではないかとされるところもある。天形星(天刑星とも書く)は陰陽道の神で、我が国では密教の修法に取り入れられ、民間のまじないにも用いられる。栴檀乾闥婆は『仏説護諸童子陀羅尼経』に説かれる、胎児や小児を害する悪鬼の上首であるが、転じて悪鬼の駆除者となり、「童子経曼荼羅」の中尊としても描かれる。神虫は典拠が明らかではないが、内容が中国の奇聞集『神異経』に載る怪人と共通すると指摘されている。錘馗は古来辟邪の門神とされるが、本図の像は唐の玄宗の夢に現れたものと共通性が高い。毘沙門天は仏教の代表的護法神であり、法華経持者の擁護は『法華経』「陀羅尼品」に説かれる。
(中島博)
美麗 院政期の絵画, 2007, p.229
もと絵巻であったものが戦後分断され掛幅装となる。益田家本地獄草紙乙巻と呼ばれてきたが、内容は中国で信仰されてきた疫鬼を懲らしめ退散させる善神を表した辟邪絵であることが明らかである。天刑星、栴檀乾闥婆、神虫、鍾馗、毘沙門天の各図が描かれる。天刑星は文字通り天刑を与える星、陰陽道の鬼神である。わが国では密教修法にもとり入れられた。ここでは牛頭天王(京洛の祇園社の祭神。古い時代には、疫神、平安末期には辟邪神)をつかんで食らう。栴檀乾闥婆ははじめインドの音楽神、八部衆の一。『法華経』普門品にいう観音三十三身の一でもある。また童子を十五悪神の危害から守護する神格として信仰を集めた。密教の「童子経曼荼羅」では本図と近い像容に表される。神虫は蠶の美称、善神として早くからその霊異が知られている。図は蛾の姿をイメージしたものであろう。鍾馗は唐の玄宗を悪鬼から守ったとの説話を生んだ中国の辟邪神。その姿は破帽藍袍に朝靴の姿という。毘沙門天はここでは、『法華経』持経者を守護する善神として現れる。こうした弓を持つ毘沙門天像は唐宋代に作例が知られる。
以上のようなきわめて珍しい図像を集めたこの絵巻の図像的淵源は南都と強い関係があり、さらに平安時代を通して宮中で修された仏名会に用いられた「地獄變御屏風」とも何らかの関わりがあると推測される。他の地獄草紙などと一連の六道絵巻として、後白河法王のころに制作され、蓮華王院宝蔵に蔵されていたものと推測される。とくにこの辟邪絵と東京国立博物館本地獄草紙・福岡市美術館本勘当の鬼図の詞書を同筆と見る説があるのは注目される。
なお、各々の詞書きには、各辟邪神の働きが簡便に説明される。
(梶谷亮治)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, pp.317-318, no.172.

