日本には陸信忠の銘を持つ十王図が多数伝来する。この作品のほか、永源寺本、尾道浄土寺本、高松法念寺本、博多禅導寺本、神奈川称名寺本などが知られる。これらの図像は幾つかに分類でき、描写は各々少しずつ異なる。しかし基本的な画面の構図、彩色や文様のパターンは共有されている。つまりは大同小異といえる陸信筆十王図の様相は、既成の型を利用して、幾つかの手によって描いたゆえとみなすことができ、やはりつとに指摘されてきた通り、職業画家による工房製作と考えるのが最も矛盾ない。本品の各幅の墨書銘はいずれも完全ではないが「慶元府車橋石巷陸信筆」と読むことができる。この銘文は他の陸信忠銘作例にも見ることができる銘だが、これによって、寧波が慶元府と呼ばれた慶元元年(一一九五)から至元十三年(一二七六)の間が、陸信忠の活動時期とみられている。陸信忠は室町時代、『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』に十王・仏像を描く画家として記録されるものの、中国の画史類には認められない画家であり、日本に伝来した作例のみが同時代資料としてその動向を伝える。奈良国立博物館本は、他の陸信忠筆十王図に比較して十王の顔が若干大きく、がっちりとした体躯に特徴がある。面貌を描写する線描は細密で、肉身部および衣の暈しも自然であり、文様表現に崩れがないなど、全体に丁寧に描いており、陸信忠十王図の中でも特に秀逸な作品として評価される。
(北澤菜月)
聖地寧波 日本仏教1300年の源流~すべてはここからやって来た~, 2009, p.300-301
人が死後に赴く冥土(めいど)には、亡者の罪業の審判者として閻羅王(えんらおう)(閻魔王)など十人の王がおり、初七日から七七日までの七日ごと、および百日・一年・三年の各忌日に、順次各王の許で裁かれて行き、六道のどこへ生まれ変わるかを決められるという。中国では五代(10世紀)頃から遺品があり、宗・元時代の明州(現在の浙江省寧波市)の職業的画工の作品がわが国へも多くもたらされた。それを代表するのが陸信忠(りくしんちゅう)筆本である。本品の落款には一部欠損があるものの、当館の陸信忠筆「仏涅槃図」と筆跡が一致すると認められる。十図はいずれも王が冥官たちを伴い、椅子に掛けて机に向かい罪状を調べており、前には裁きを受ける亡者や、あるいはすでに有罪とされた亡者が様々の刑罰を受ける様子などが獄卒の鬼たちと共に描かれる。的確な象形と鮮麗な彩色による濃密な表現は、陸信忠一流のものである。なお王の背後の衝立(ついたて)にはどれも水墨山水図が描かれ、日本への水墨画導入にこれら画中画が一つの役割を果たしたと考えられる。
(中島博)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.316, no.170.
本図の各幅には落款があり「慶元府車橋石版巷陸信忠筆」と読まれる。慶元府とは、明州すなわち今の浙江省寧波市のことであり、慶元元年(一一九五)から至元十三年(一二七六)の間、そう呼ばれていた。寧波は当時の有数の貿易港であり、わが国からの入宋・入元留学僧の多くも当地を通過している。陸信忠は金大受に次いでその頃の寧波に工房を構えた職業的画工であり、十王図をはじめ羅漢図、涅槃図など多くの作例を残している。本図は図像的には、制作期の先行する旧江田家本十王図(現韓国・湖巌美術館蔵)に倣うが、その表現技法は金大受本に影響を受けているとみられる。わが国で制作された福岡・誓願寺本の十王図(鎌倉時代)が、またこれに倣っている。本図は陸信忠の十王図のなかでも精巧な作例であり、特に十王後背に描かれた衝立中の水墨山水図は浙派の先行様式を示す斬新なもので、当時のわが国の人士に新鮮な驚きを与えたであろうことが想像される。
(梶谷亮治)
東アジアの仏たち, 1996, p.271