中国唐代の高僧・玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)(六〇二〜六六四)を描く。左手に梵篋(ぼんきょう)(インドの経典)を持ち、右手は薬指と小指を屈する印相を表し、傍らに西域風の侍者が立つ。インドから数多くの経典をもたらした玄奘にふさわしく、玄奘を祖と仰ぐ奈良の法相宗(ほっそうしゅう)寺院で重視された姿である。柔軟な線描と微かな朱の隈取(くまど)りによって瑞々しい肉身を表し、明度の高い彩色を効果的に用いるなど、鎌倉時代中期の作とみられる。西大寺(さいだいじ)旧蔵で、同寺を中興した叡尊(えいそん)が建長三年(一二五一)に南都の絵仏師・尭尊(ぎょうそん)に描かせたという玄奘三蔵御影に相当する可能性がある。
(谷口耕生)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.272, no.186.
左手に大きな梵篋(ぼんきょう)を持ち、右手は胸前に掲げて薬指と小指を屈し、牀座(しょうざ)に坐す玄奘の姿を描く。牀座の手前には青い皮沓(ブーツ)を並べ、傍らには座をしつらえるための筵(むしろ)を持つ胡貌の侍者が立つ。こうした像容および道具立ての玄奘像は、もともとは中国において立像として成立したと考えられており、入宋僧成尋(じょうじん)は泗洲(ししゅう)普照王寺(ふしょうおうじ)で「左手執経右手当胸小指頭相捻」「著花靴」という姿の玄奘像を拝している(『参天台五台山記』延久四年九月二十一日条)。その図像の淵源は古く、わが国ではすでに天平宝字八年(七六四)創建の薬師寺西院正堂障子や弘仁四年(八一三)創建の興福寺南円堂扉絵に描かれていた玄奘像がこの姿を取っていたと考えられ、これらは玄奘の訳経道場でありかつ入寂の場所だった長安・玉華寺に奉安された影像の図様を踏襲したものだったという。左手に抱える梵篋(ぼんきょう)は訳経僧としての玄奘を象徴する持物であり、右手の第二・三指を立てる印相については、玄奘と論議する姿の維摩像がこれを表すほか、玄奘三蔵絵においても論議を行う玄奘の姿に採用されていることから[第七巻第三・七段]、論議を得意とした玄奘の学徳の高さを象徴しているのだろう。本品は、柔軟な線描と微(かす)かな朱の隈取りによって描き出される瑞々しい肉親表現や、金彩を交えずに明度の高い緑色と赤色を効果的に用いる作風から、鎌倉時代中期に南都で制作されたと考えられる。そこで注目されるのが、本品がかつて奈良・西大寺の什物だったという事実である(表背墨書銘)。西大寺の叡尊は建長三年(一二五一)に玄奘三蔵御影を南都絵所吐田座(はんだざ)の絵師である尭尊(ぎょうそん)に描かせており(『感身学正記』)、その画像は弘法大師像と一具であったことから坐像とみられ、画風・形式・制作時期からも本品こそが叡尊の描かせた図像そのものに相当する可能性がある。なお、興福寺の三蔵会本尊となる玄奘三蔵影を吐田座の絵師重有に描かせた事例が知られており(『経覚私要鈔』寛正二年四月二十五日条)、本品も西大寺における玄奘の忌日法要で奉懸されたのであろう。
(谷口耕生)
天竺へ―三蔵法師3万キロの旅―, 2011, p.220-221









































