10世紀に中国・宋からもたらされた京都・清凉寺(せいりょうじ)の釈迦如来立像は、釈迦在世中にその姿を写した像として信仰を集め、「清凉寺式釈迦」と呼ばれる模像が多数制作された。本像もその一体で、台座の墨書銘から、叡尊(えいそん)(1201-90)の弟子忍性(にんしょう)(1217-1303)らの関与のもと、仏工玄海が制作したことがわかる。薄手の衣を通肩(つうけん)にまとう形式、縄目状の頭髪、同心円状に反復される衣文構成など、根本像の異国的な像容が忠実に再現される一方で、いかにも鎌倉彫刻らしい現実感漂う風貌が、巧みに造形されている。
(稲本泰生)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.98, no.123.
寛和二年(九八六)、東大寺僧・奝然が中国・宋からもたらした京都・清凉寺の釈迦如来立像は、インドの優填王が釈迦在世注にその姿を写した生身の釈迦像として大変な信仰を集め、多数の模造が製作された。模刻は平安時代から行われたが、その数は鎌倉時代に入ってから飛躍的に増加する。本像は数ある「清凉寺式釈迦像」の中でも屈指の優作であり、台座の墨書銘から、文永十年に奈良・元興寺に関係ある古橘寺金堂の古材を用いて製作された五体の釈迦像のうち一体であること、叡尊(一二〇一~九〇)の弟子忍性(一二一七~一三〇三)、銘文中の「良観」)らが造像に関与したことなどが判明する。作者玄海については不詳だが、薄手の衣を通肩にまとう形式、縄目状の頭髪、同心円状に反復される衣文構成など、根本像の異国的な像容を忠実に再現する一方で、いかにも鎌倉彫刻らしい現実感を漂わせた、少年のような風貌を巧みに造形している。『南無阿弥陀仏作善集』は、重源が「優填王赤栴檀像第二転(うてんおうしゃくせんだんぞうだいにてん)」と称する画像に基づいて「皆金色(かいこんじき)の三尺釈迦如来立像」を造立したことでを二箇所にわたって記す。うち一体は伊賀別所の御影堂(建仁二年=一二〇二頃造営)に安置された後、もう一体は隅田入道なる人物が所持した像。この記事は優填王所造の伝承を持つ釈迦像に対し、彼がただならぬ関心と信仰心を有していたことを物語る。また清凉寺の根本像は五尺(約一六〇センチ)だが、右の二像が三尺像である点に関して、これが釈迦仏が人前に化現する際の身長であるとの認識が当時存在し、本像のごとき約二尺五寸の作例も、その範疇に入るとする注目すべき見解がある。ただし『作善集』所載の右の画像の図像形式が、清凉寺本尊ではなく峰定寺釈迦像に対応するとの推測もあり、叡尊ら西大寺系の律僧が清凉寺式釈迦に対する信仰を喧伝する以前における、釈迦像の製作事情と重源周辺の信仰関係については、なお検討を要する。
(稲本泰生)
御遠忌八百年記年大勧進 重源―東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出―, 2006, p.262
京都嵯峨・清凉寺本尊木造釈迦如来立像(国宝)は、入宋僧奝然(ちょうねん)が北宋・雍熈2年(985)に優填王(うでんのう)思慕像を写し造らせ日本に持ち帰った像で、「三国伝来の釈迦」として古来尊崇を集めてきた。その模刻像もとりわけ鎌倉時代以降数多く残されているが、本像もその一つで、髪の毛を縄を巻いたように表し、襟元を引き詰めて大衣をまとい、同心円状の衣褶を繁く表すなど、原像の特殊な図像形式を倣っているのは明らかである。しかし、相好は極めて異国風の原像とは異なり鎌倉時代特有の明快さを備え、プロポーションも頭が大きくなっており、図像面でも両脚間にまで同心円状の衣文が及ぶなど、模刻に際しては鎌倉時代の趣味が強く反映され、原像のいかにも異色な雰囲気は稀薄になっている。
台座框(かまち)に墨書銘があり、玄海が文永10年(1273)に元興寺の古橋寺金堂の古材を用いて造立したことがわかる。玄海については他に作例もなく、どういう系統の仏師か詳らかではない。カヤ材の一木造で、後頭部を別材製とし、頭部は内刳して玉眼を嵌入しさらに納入品を籠(こ)めている。
(礪波恵昭)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.298, no.95.