釈迦生前の姿を写したという京都・清凉寺本尊の模刻。台座の墨書により、律僧忍性を開眼導師として文永十年に供養され、作者玄海の名がわかる。頭部内には水晶製とみられる舎利容器を納める。
音声ガイド
京都・清凉寺の本尊釈迦如来立像の模像。清凉寺像は寛和2年(986)に東大寺僧奝然(ちょうねん)が中国・宋より請来した像で、釈迦在世中の姿を写した霊像として信仰を集め、鎌倉時代に入ると盛んに模像が造られた。本像は網目状の頭髪や衣を通肩(つうけん)にまとう点など原像の形式を写すものの、明快な彫り口に同時代の特色がある。台座上框(うわかまち)上面の墨書(ぼくしょ)により、文永10年2月25日に開眼供養が行われたことがわかる。作者は玄海で、開眼導師は「良観上人」であった。玄海はほかに事績が知られないが、良観は西大寺叡尊(えいぞん)の高弟・忍性(にんしょう)の房号(僧侶としての別名)であり、ここで指すのは忍性とみられる。
頭部内に舎利容器を納めることが知られていたが、近年のX線CTスキャン調査により、容器は金属製の蓋と底部をともなう水晶製と考えられ、内部には舎利に擬(なぞら)えた粒状の品があることも確認された。叡尊の自伝『感身学正記(かんじんがくしょうき)』文永8年条には、同年2月に西大寺中の仏舎利と法華寺で涌出(ゆしゅつ)した仏舎利二千粒を叡尊が供養したところ増加し、最終的に五千粒を数えたが、うち一千粒が忍性に与えられたとある。この2年後に造立された本像との関連は、今後より注目されてよいだろう。
(内藤航)
奈良国立博物館だより第122号. 奈良国立博物館, 2022.7, p.8.
京都・清凉寺の本尊釈迦如来像は、平安時代中期に東大寺僧奝が中国から帰朝する際にもたらした像で、釈迦生前の姿を写した霊像として信仰を集めた。これを模した清凉寺式釈迦如来像は鎌倉時代以降に流行し、本像はその一例。縄目状の頭髪や、同心円状の衣文(えもん)が配された袈裟を通肩(つうけん)に着す点は原像の姿を忠実に写すが、明快な彫り口は鎌倉時代の特徴を示す。台座の墨書(ぼくしょ)銘により、玄海(げんかい)の作者名、および叡尊(えいぞん)の高弟忍性(にんしょう)を開眼導師として、文永十年二月十五日(釈迦の命日)に供養されたことがわかる。頭部内に水晶製と思しき舎利容器を納入する。
(内藤航)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2022, p.118, no.151.
京都・清凉寺の本尊である釈迦如来像の模刻(もこく)。清凉寺本尊は平安時代中期に東大寺僧の奝然(ちょうねん)が中国から帰朝の際にもたらし、釈迦生前の姿を写した霊像として信仰され、鎌倉時代以降に模刻が流行した。台座墨書(ぼくしょ)により、文永十年に供養され、作者は玄海とわかる。縄目状の頭髪や、同心円状の衣文(えもん)を配した袈裟(けさ)を通肩(つうけん)に着す点は原像に忠実だが、明快な彫り口に同時代の特色がある。頭部内に舎利(しゃり)容器を納めることが知られていたが、近時のX線CTスキャン調査により、蝶番(ちょうつがい)付きの金属製のものを上下に嵌(は)めた球状の水晶製とみられ、内部には舎利に擬(なぞら)えた品を納め、これを紐のある袋に入れた上、後頭部側に挿した木製の小材から吊り下げていることがわかった。
(内藤航)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.243, no.6.
頭髪を縄状に編み、その正面に上下二個の渦状の髪型を表すこと、着衣を通肩(つうけん)に着け、波状の衣文を細かく刻むことなど、真言律関連の寺院に祀られることの多い清凉寺式の釈迦如来像の一例であるが、等身大を基本とする清凉寺式釈迦像のなかにあって、その約半分の大きさとなる。これは後述のように、同時に五軀が造立されたことに関わるものかもしれない。
カヤ材を用いた一木造の像で、像内は内刳(うちぐり)を施さないが、後頭部のみを割り矧ぎ、ここに納入品を入れていることがX線透過撮影の結果知られる。納入品は仏舎利(ぶっしゃり)と思われる鉱物質の粒を数個入れた水晶製らしき球状の容器で、これを蝶番付きの金属製のものではさみ、何らかの方法で固定している。
蓮華座の上框上面に墨書があり、南都元興寺(がんごうじ)の古橋寺金堂に関わる木材を用いて文永十年二月から造りはじめ、四月八日の仏誕会当日に完成、同十五日に「小塔院東室」で開眼供養された五軀の釈迦如来像のうちの一軀とわかる。作者は仏工玄海である。銘記は一部切り取られているが、開眼導師は良観上人と記されるようで、すなわち忍性が導師を勤めたかと思われるが、なお検討を要する。また開眼法要を司ったと見られる性海(しょうかい)は、弘長二年(一二六二)の叡尊の東国下向に随行して『関東往還記(かんとうおうかんき)』を著した喜光寺長老の覚証房性海と考えられている。「海」字の共通から推して、作者玄海は性海の弟子筋ではなかったかという憶測もありえよう。
なお本像開眼供養日は上述のとおり四月十五日であるが、同年五月二十日には極楽寺において忍性が二一日間にわたって行った談義が終了している。したがって開眼供養から一五日後の四月末日には忍性が極楽寺にいたわけだが、開眼供養が行われた「小塔院」が元興寺内の一画を指すと見るなら、開眼供養を終えた忍性は直ちに鎌倉へ下向したこととなる。当時、奈良から鋳倉までは十余日の日数で移動できたようであるので、不可能な日程ではない。忍性のエネルギッシュな行動力を証する事例といえるかもしれない。
(岩田茂樹)
忍性-救済に捧げた生涯-. 奈良国立博物館, 2016.7, pp.244-245, no.64.
網目状にあらわされた頭髪、両肩を覆う袈裟(けさ)をまとう「通肩(つうけん)」という着方、一枚の袈裟、足下で裙(くん)が二段にあらわされること、同心円状に細い衣文を執拗(しつよう)に刻む、などの特徴がある。元になった清凉寺釈迦像の個性的な表現を模倣することで、その霊験をも写し伝えようとするものである。
(岩井共二)
みほとけのかたち 仏像に会う. 奈良国立博物館, 2013.7, p.106, no.68.
10世紀に中国・宋からもたらされた京都・清凉寺(せいりょうじ)の釈迦如来立像は、釈迦在世中にその姿を写した像として信仰を集め、「清凉寺式釈迦」と呼ばれる模像が多数制作された。本像もその一体で、台座の墨書銘から、叡尊(えいそん)(1201-90)の弟子忍性(にんしょう)(1217-1303)らの関与のもと、仏工玄海が制作したことがわかる。薄手の衣を通肩(つうけん)にまとう形式、縄目状の頭髪、同心円状に反復される衣文構成など、根本像の異国的な像容が忠実に再現される一方で、いかにも鎌倉彫刻らしい現実感漂う風貌が、巧みに造形されている。
(稲本泰生)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.98, no.123.
寛和二年(九八六)、東大寺僧・奝然が中国・宋からもたらした京都・清凉寺の釈迦如来立像は、インドの優填王が釈迦在世注にその姿を写した生身の釈迦像として大変な信仰を集め、多数の模造が製作された。模刻は平安時代から行われたが、その数は鎌倉時代に入ってから飛躍的に増加する。本像は数ある「清凉寺式釈迦像」の中でも屈指の優作であり、台座の墨書銘から、文永十年に奈良・元興寺に関係ある古橘寺金堂の古材を用いて製作された五体の釈迦像のうち一体であること、叡尊(一二〇一~九〇)の弟子忍性(一二一七~一三〇三)、銘文中の「良観」)らが造像に関与したことなどが判明する。作者玄海については不詳だが、薄手の衣を通肩にまとう形式、縄目状の頭髪、同心円状に反復される衣文構成など、根本像の異国的な像容を忠実に再現する一方で、いかにも鎌倉彫刻らしい現実感を漂わせた、少年のような風貌を巧みに造形している。『南無阿弥陀仏作善集』は、重源が「優填王赤栴檀像第二転(うてんおうしゃくせんだんぞうだいにてん)」と称する画像に基づいて「皆金色(かいこんじき)の三尺釈迦如来立像」を造立したことでを二箇所にわたって記す。うち一体は伊賀別所の御影堂(建仁二年=一二〇二頃造営)に安置された後、もう一体は隅田入道なる人物が所持した像。この記事は優填王所造の伝承を持つ釈迦像に対し、彼がただならぬ関心と信仰心を有していたことを物語る。また清凉寺の根本像は五尺(約一六〇センチ)だが、右の二像が三尺像である点に関して、これが釈迦仏が人前に化現する際の身長であるとの認識が当時存在し、本像のごとき約二尺五寸の作例も、その範疇に入るとする注目すべき見解がある。ただし『作善集』所載の右の画像の図像形式が、清凉寺本尊ではなく峰定寺釈迦像に対応するとの推測もあり、叡尊ら西大寺系の律僧が清凉寺式釈迦に対する信仰を喧伝する以前における、釈迦像の製作事情と重源周辺の信仰関係については、なお検討を要する。
(稲本泰生)
御遠忌八百年記年大勧進 重源―東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出―, 2006, p.262
京都嵯峨・清凉寺本尊木造釈迦如来立像(国宝)は、入宋僧奝然(ちょうねん)が北宋・雍熈2年(985)に優填王(うでんのう)思慕像を写し造らせ日本に持ち帰った像で、「三国伝来の釈迦」として古来尊崇を集めてきた。その模刻像もとりわけ鎌倉時代以降数多く残されているが、本像もその一つで、髪の毛を縄を巻いたように表し、襟元を引き詰めて大衣をまとい、同心円状の衣褶を繁く表すなど、原像の特殊な図像形式を倣っているのは明らかである。しかし、相好は極めて異国風の原像とは異なり鎌倉時代特有の明快さを備え、プロポーションも頭が大きくなっており、図像面でも両脚間にまで同心円状の衣文が及ぶなど、模刻に際しては鎌倉時代の趣味が強く反映され、原像のいかにも異色な雰囲気は稀薄になっている。
台座框(かまち)に墨書銘があり、玄海が文永10年(1273)に元興寺の古橋寺金堂の古材を用いて造立したことがわかる。玄海については他に作例もなく、どういう系統の仏師か詳らかではない。カヤ材の一木造で、後頭部を別材製とし、頭部は内刳して玉眼を嵌入しさらに納入品を籠(こ)めている。
(礪波恵昭)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.298, no.95.

