和歌山県紀の川市、粉河産土神社(こかわうぶすなじんじゃ)裏山より昭和三十四年(一九五九)に出土した。形姿の整った経筒と法華経八巻が揃って残る、経塚遺品中の屈指の優品。経筒は円筒形で、宝珠(ほうじゅ)形のつまみを載せた傘蓋を被せる。側面に刻銘があり、写経の参加者や納経の経緯などが記されている。その趣旨は、法華経を書写・埋納した善行により、弥勒(みろく)との縁を願うというもの。勧進(かんじん)(発起人)の清原信俊(きよはらのさねとし)は法華経一千部を書写した人物として史書に名がある。法華経は一巻ごとに書体が異なり、僧侶が書写を手分けした様子が知られる。陶製の外筒は愛知県の猿投窯(さなげよう)産で、側面に沈線を巡らせて三筋壺(さんきんこ)の態をあしらう。
(吉澤悟)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.253, no.64.
昭和三十四年(一九五九)、粉河寺(和歌山県紀の川市)境内の粉河産土(うぶすな)神社の裏山より出土した品。法華経八巻を銅製経筒に収め、陶製外筒で保護していた。銅製経筒の側面には約百字あまりの銘文が九行にわたって刻まれている。それによれば、天治二年(一一二五)に明経博士(みょうぎょうはかせ)の清原信俊が勧進(かんじん)となり、鎮尊、良忍、勝胤、賢俊、忍昭、聞寛の六人の大法師が、京都・貴船山の北にあった芹生(せりお)別所において四七日(二十八日)間で法華経八巻を書写し、粉河の宝前に埋納したという。そしてこの作善によって兜率天(とそつてん)の内院に生まれ、結縁衆(けちえんしゅう)とともに弥勒菩薩(みろくぼさつ)の知遇を得ることを祈願している。清原信俊は三宝に帰依すること篤く、法華経一千部を書写して所々の名山霊寺に送ったという(『本朝新修往生伝』)。実際に鞍馬寺経塚(くらまでらきょうづか)の保安元年(一一二〇)銘経筒(国宝、京都・鞍馬寺蔵)にも信俊の名が見え、五年後の本品と併せて盛んな作善活動がうかがえる。信俊があえてここに経塚を営んだのは、銘文にも見えるように粉河の霊験があらたかと信じたためである。粉河の観音の力によって来世の弥勤結縁を実現させようとしたのであろう。また、銘文中で法華経を書写した六僧の一人良忍とは、融通念仏(ゆうづうねんぶつ)宗の宗祖とされる聖応大師良忍その人とみる意見がある。本経筒が作られた天治二年(一一二五)は、良忍が鞍馬寺で毘沙門天の守護を感得したという年でもある。粉河の地にさまざまな人と祈りが交錯していたことを伝える品として興味深い。
(吉澤悟)
信貴山縁起絵巻 : 朝護孫子寺と毘沙門天王信仰の至宝. 奈良国立博物館, 2016.4, pp.215-216, no.19.
和歌山県紀の川市の粉河産土神社裏山より昭和三十四年(一九五九)に出土したもの。法華経八巻を銅製経筒に収め、陶製外容器で保護していた。陶製外容器は灰色に引き締まった愛知県猿投窯(さなげよう)系の円筒容器で、側面に二条沈線(にじょうちんせん)で三筋を表す。銅製経筒は、傘型の蓋を被せた円筒形で、筒身の側面に九行の銘文が刻まれている。それによれば、天治二年(一一二五)に明経博士(みょうぎょうはかせ)の清原信俊(きよはらののぶとし)が勧進となり、鎮尊、良忍、勝胤、賢俊、忍昭、聞寛の六人の大法師が、貴船山(きぶねやま)の北にあった芹生(せりょう)別所において四七日(二十八日)間で法華経八巻を書写し、粉河の宝前に埋納したという。そしてこの作善によって兜率天(とそつてん)の内院に生まれ、結縁衆(けちえんしゅう)とともに弥勒菩薩の知遇を得ることを祈願している。信俊は累代儒家の出で、『本朝新修往生伝(ほんちょうしんしゅうおうじょうでん)』(仁平元年編/一一五一)によれば篤く三宝に帰依し、『法華経』一千部を書写して所々の名山霊寺に送ったといい、鞍馬寺所蔵の保安元年(一一二〇)銘の経筒(国宝)にもその名が見える。法華経は上部を欠失するものがあるが八巻すべてが揃っている。全巻とも斐紙(ひし)に薄墨で界線を引き、一行十七字を基本とする。巻ごとに書体が異なっており、一人に一巻の書写を割り当てたようである。巻二の末尾には経筒銘の六人の大法師とは別の「仏子蓮覚」の著名があり、都合七名までは書き手が判明している。
(吉澤悟)
まぼろしの久能字経に出会う 平安古経展, 2015, p.141
紀北の古刹、粉河寺の背後にある風猛山の南麓斜面から発見されたもので、法華経8巻を納めた経筒を陶製外容器に入れ、蓋代わりに1枚の自然石が置かれていたという。経筒は銅鋳製、蓋は台付宝珠鈕をいただく被蓋式傘蓋(かぶせぶたしきかさぶた)である。円筒形の身の側面に9行の銘文が刻まれ、天治2年(1125)9月5日に明経博士の清原信俊(さねとし)が勧進となり、6人の僧に依頼して京都・大原の芹生別所で法華経を書写し、弥勒菩薩との値遇を願い、粉河寺に埋納したことが知られる。信俊は『本朝新修往生伝』によると、如法経を書写し、各地の名山霊寺に送ったとされる。
経筒は形姿に優れ、経巻も出土品としてはきわめて保存状態がよく、貴重である。なお、陶製外容器は愛知県の猿投(さなげ)古窯で焼かれたものである。
(井口喜晴)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, pp.282-283, no.22.

