和歌山県紀の川市の粉河産土神社裏山より昭和三十四年(一九五九)に出土したもの。法華経八巻を銅製経筒に収め、陶製外容器で保護していた。陶製外容器は灰色に引き締まった愛知県猿投窯(さなげよう)系の円筒容器で、側面に二条沈線(にじょうちんせん)で三筋を表す。銅製経筒は、傘型の蓋を被せた円筒形で、筒身の側面に九行の銘文が刻まれている。それによれば、天治二年(一一二五)に明経博士(みょうぎょうはかせ)の清原信俊(きよはらののぶとし)が勧進となり、鎮尊、良忍、勝胤、賢俊、忍昭、聞寛の六人の大法師が、貴船山(きぶねやま)の北にあった芹生(せりょう)別所において四七日(二十八日)間で法華経八巻を書写し、粉河の宝前に埋納したという。そしてこの作善によって兜率天(とそつてん)の内院に生まれ、結縁衆(けちえんしゅう)とともに弥勒菩薩の知遇を得ることを祈願している。信俊は累代儒家の出で、『本朝新修往生伝(ほんちょうしんしゅうおうじょうでん)』(仁平元年編/一一五一)によれば篤く三宝に帰依し、『法華経』一千部を書写して所々の名山霊寺に送ったといい、鞍馬寺所蔵の保安元年(一一二〇)銘の経筒(国宝)にもその名が見える。法華経は上部を欠失するものがあるが八巻すべてが揃っている。全巻とも斐紙(ひし)に薄墨で界線を引き、一行十七字を基本とする。巻ごとに書体が異なっており、一人に一巻の書写を割り当てたようである。巻二の末尾には経筒銘の六人の大法師とは別の「仏子蓮覚」の著名があり、都合七名までは書き手が判明している。
(吉澤悟)
まぼろしの久能字経に出会う 平安古経展, 2015, p.141
紀北の古刹、粉河寺の背後にある風猛山の南麓斜面から発見されたもので、法華経8巻を納めた経筒を陶製外容器に入れ、蓋代わりに1枚の自然石が置かれていたという。経筒は銅鋳製、蓋は台付宝珠鈕をいただく被蓋式傘蓋(かぶせぶたしきかさぶた)である。円筒形の身の側面に9行の銘文が刻まれ、天治2年(1125)9月5日に明経博士の清原信俊(さねとし)が勧進となり、6人の僧に依頼して京都・大原の芹生別所で法華経を書写し、弥勒菩薩との値遇を願い、粉河寺に埋納したことが知られる。信俊は『本朝新修往生伝』によると、如法経を書写し、各地の名山霊寺に送ったとされる。
経筒は形姿に優れ、経巻も出土品としてはきわめて保存状態がよく、貴重である。なお、陶製外容器は愛知県の猿投(さなげ)古窯で焼かれたものである。
(井口喜晴)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, pp.282-283, no.22.