画面上方を東として東大寺の大伽藍の景観を描く。大仏殿を斜めに、二月堂(にがつどう)や鎮守社の手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)を正面向きに大きくとらえる構図は大変珍しい。樹木や人物の描写が、南都絵仏師(なんとえぶっし)の作風に近似し、寺院の霊験説話に関わる図像や参詣者の姿を多く描き込むなど、室町後期の社寺参詣曼荼羅(しゃじさんけいまんだら)と共通する要素も認められる。永禄十年(一五六七)に兵火で焼失する前の鎌倉時代再建時の姿を描く大仏殿前では、参拝者が手にする餌(えさ)に鹿が集うという現在の奈良と変わらぬ景色が展開する。
(谷口耕生)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.276, no.213.
東大寺の伽藍(がらん)を概(おおむ)ね西方向からの俯瞰(ふかん)で描く。霞(かすみ)を利用して画面を整理しながら、斜め向きの大仏殿、後方向かって右側の手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)、左側の二月堂など、実際の景観に近い位置関係で主要な諸堂塔を描く。
境内(けいだい)には参詣者や寺僧らの姿が細やかに描きこまれており、大仏殿前で鹿に餌(えさ)らしきものを差し出す人々、鐘楼(しょうろう)を見上げて手を合わせる人々など、製作当時の東大寺の実際の様子が見て取れるようである。東大寺縁起に較べると縁起の要素は少ないが、二月堂の下付近には金色の鷲(わし)と童子そして執金剛神(しつこんごうしん)が描かれ、良弁に関わる縁起が示されている。
大仏殿の描写は永禄十年(一五六七)に焼失した、建久元年(一一九〇)上棟とされる重源(ちょうげん)再建の大仏殿の姿を伝えていると考えられるほか、重源と関わりの深い三角五輪塔(さんかくごりんとう)が描かれる東大寺別所(浄土堂)や、栄西(ようさい)の勧進(かんじん)によって建立された鐘楼(現存)、本尊銘文から嘉禎三年(一二三七)頃建立とされる地蔵堂(現念仏堂)、江戸時代に現俊乗堂が浄土堂跡に移されるまであった旧俊乗堂などを描くことが確認されており、総じて鎌倉復興以後、永禄の兵火以前の東大寺伽藍の様子を伝える資料としても貴重である。
描写から室町時代に活躍した南都絵所の本格的作例と考えられる。
(北澤菜月)
お水取り. 奈良国立博物館, 2020.2, p.22.
大仏殿をはじめ東大寺の伽藍を、霊気の漂う中に表しており、二月堂は左上に描かれている。右上には手向山八幡宮も目立っている。法華堂など実際の建築と比較しうるものについて見ると、詳細にわたって正確というわけではないが、概ね建築の特徴をよく捉えているといえる。中央部左端にある、その右の鐘楼よりも大きい宝形造りの堂は、その位置に現存する宝永元年(1704)建立の俊乗堂ではなく、永禄10年(1567)に焼失した、重源建立の浄土堂(念仏堂ともいう)と考えられる。大仏殿は、江戸時代再建の現建築とは異なり、正面中央に唐破風ではなく、裳階の切り上げを配した古様な形式を示し、やはり永禄10年に焼失した、鎌倉時代再興の大仏殿の姿を伝える貴重な作品ということになろう。
僧俗男女さまざまの寺僧や参詣者など、人物多数を散在させて表す、境内の賑わう様子が、図の雰囲気を決定している。二月堂の手前には、金鷲・童子(のちの良弁)・執金剛神という縁起的要素も、天文5年(1536)の「東大寺縁起」に近似する図様で、描き込まれている。伽藍描写とあわせてこれらの特徴は、室町時代末期から桃山時代にかけて盛行した諸社寺の「参詣曼荼羅(さんけいまんだら)」に通じ、東大寺に関するこの種の図は類例を見ない。主題と作風から、南都絵所の作とみなされる。
(中島博)
お水取り. 奈良国立博物館. 2009[改訂版]. p.33


















