大和国(やまとのくに)の額安寺(かくあんじ)で五重塔の落慶供養が催された際に作成された願文。額安寺は古くは飛鳥時代に遡る寺院であり、鎌倉時代に叡尊(えいそん)(一二〇一〜一二九〇)・忍性(にんしょう)(一二一七〜一三〇三)らによって律院として再興された。この願文の冒頭では、中国における戒律学習の隆盛を説き、また、額安寺の由緒と地勢を讃える。後半部で五重塔の造立が述べられるが、これは額安寺で出家した忍性によって計画され、忍性の没後、嘉元三年(一三〇五)に同朋の信空(しんくう)らが完成させた。料紙には表裏ともに金銀の切箔(きりはく)や砂子(すなご)を散らした装飾紙を用いており、目に鮮やかである。
(佐藤稜介)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.277, no.218.
嘉元三年(一三〇五)、大和国の額安寺に五重塔が完成し、落慶供養が営まれた。これは、そのときの供養願文を、金銀箔で装飾された料紙に墨書したものである。年月日記載の部分を欠くが、別の史料から嘉元三年十月二十七日付けであったことが知られる。
額安寺の草創は古く推古天皇の時代に遡り、聖武天皇の時代に道慈律師によって伽藍が整備されたと縁起に伝える。平安時代以降、一時衰退していたのを、鎌倉時代に叡尊と忍性が再興し律院とした。この願文によると、五重塔の造立は忍性が発願したが、志半ばの乾元二年(一三〇三)に入寂したため、同朋の信空がその遺志を継ぎ、弟子等とともに二年後の嘉元三年にこれを完成させた。
大和国城下郡出身の忍性は、一六歳で母を亡くした後、額安寺に八〇日間寵もり、出家した。その思い出の地である額安寺に、晩年を迎えた忍性は塔の造立を思い立ったのである。生前、遺骨の一部をここに納めるよう遺言するなど、忍性の額安寺への思い入れは相当なものがあったが、この願文もその思いの一端を伝える史料である。
(野尻忠)
忍性-救済に捧げた生涯-. 奈良国立博物館, 2016.7, p.258, no.109.

