インドの霊鷲山(りょうじゅせん)の山中で、釈迦の説法を諸菩薩(ぼさつ)、十大弟子・四天王(してんのう)・諸天部が聴聞する情景を鮮やかな彩色で描きだす。特に上部の霊鷲山や下方に配された霊鷲山に到るまでの道のりを表す深い山並みには、発色の良い青緑の顔料を用いた優美な自然描写が展開しており、平安時代に確立したやまと絵山水の形式を正しく継承したものと考えられる。その一方、釈迦が坐す蓮華座の高く段を重ねた框(かまち)の形式や、韋駄天(いだてん)のように合掌(がっしょう)した腕上に宝剣を横たえる四天王の一尊の像容など、鎌倉時代以降に流布した中国宋代の最新の図像が部分的に採用されていることから、成立は鎌倉時代前期とみられる。表装の背面に貼り付けられていた五度にわたる修理銘によって、最初の修理が文暦元年(一二三四)に実施され天台座主(てんだいざす)をつとめた延暦寺(えんりゃくじ)僧承圓(しょうえん)が開眼供養を行ったこと、近世には比叡山(ひえいざん)東塔の無動寺(むどうじ)の什宝だったこと、「霊鷲山釈迦如来像」「霊山会釈迦像」等と呼ばれてきたことなどが判明し、制作当初から一貫して比叡山に伝来したと考えられる。
天台浄土教を確立した恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)によって正暦年中(九九〇~九九五)に比叡山横川(よかわ)に建立された霊山院(りょうぜんいん)では、源信が創始した本尊釈迦像に対する毎日の生身供(しょうじんく)や、『法華経』を講じる霊山院釈迦講が毎月晦日に行われていた。そして天台僧仁康(にんこう)が主催し源信も臨席したという河原院(かわらのいん)の法華講会には、仏師康尚(こうじょう)が大安寺釈迦像を忠実に写して造立した丈六(じょうろく)釈迦像が本尊に迎えられたと伝えられる。本図に描かれる釈迦の姿にも、こうした比叡山の霊山釈迦信仰の中に継承された大安寺本尊の記憶が投影されているのかもしれない。
(谷口耕生)
大安寺のすべてー天平のみほとけと祈りー. 奈良国立博物館, 2022.4, p.171, no.58.
インドの霊鷲山で、釈迦が菩薩(ぼさつ)や弟子などに対して教えを説く場面を鮮やかな色彩で描く。画面の下方には、穏やかで風情に富む山景や、山中の水流、そこにかかる橋が、広々と描かれるが、これは霊鷲山に至るまでの道筋を表している。人間の生きる世界と同じ地平に存在する山であるという当時の霊鷲山への認識を伝えるとともに、平安時代以来の伝統を保つ山水表現も貴重である。鎌倉時代の文暦元年(一二三四)の修理以降、数回の修理が行われ、その間長く比叡山あるいはその関連寺院に伝来し、近代には村山龍平氏の蔵品として知られた。
(北澤菜月)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.254, no.72.
三幅の画絹を継いだ縦長の大画面に、天竺(てんじく)(インド)摩掲陀国(まがだこく)の王舎城(おうしゃじょう)外にある霊鷲山において、釈迦如来(にょらい)が多くの会衆(えしゅう)に囲繞(いじょう)されながら説法する情景を描く。上部には左右いっぱいに青緑山水が連なっており、中央のひときわ高い峰の山頂が向かって左方を向く鷲の頭部の姿に象られていることから、釈迦説法の場として『法華経』をはじめ諸経に説かれる霊鷲山を表したものと理解される。中央の広い空間には、胸前で転法輪印(てんぽうりんいん)を結び、蓮華座上に結跏趺坐(けっかふざ)しながら説法する釈迦如来を中心として、左右には『法華経』「序品」に登場する十八菩薩、手前に十大弟子(じゅうだいでし)が坐し、前方には四天王(してんのう)および梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)・阿修羅(あしゅら)・龍王(りゅうおう)などの諸天や在家信者がいずれも立ち姿で聴聞する姿を配す。四天王のうち右上の増長天(ぞうちょうてん)に相当するとみられる一尊が、合掌(がっしょう)する両肘に剣を挟(はさ)みもつという、宋代以降中国において盛んに造像された韋駄天(いだてん)の像容に表されるのは珍しい。深い雲霞で隔てられた下方の空間には、緑青(ろくしょう)や群青(ぐんじょう)で美しく彩られた豊かな山景が描かれており、山中の川にかかる橋や二基の塔婆(とうば)の存在は釈迦説法の会場である霊鷲山へと誘(いざな)う道標となっている。
諸尊の賦彩(ふさい)には裏彩色(うらざいしき)を用いず、四天王の図像や配置が通例と異なり、集合像としての緊密性に欠けるなど、絵仏師(えぶっし)による仏画制作の定式から外れる要素が認められる一方、白色の三本の筋を連ねる渓流や、枝を左右に伸ばす樹木、柔らかい輪郭をもつ霞の形態、青緑山水の鮮やかな彩色など、神護寺本山水屛風(せんずいびょうぶ)を想起させる古様を示しており、正統なやまと絵を得意とする絵師の手になる可能性があるだろう。
本図裱背には五度にわたる修理銘を墨書した紙片が貼り付けられていた(現在別置)。これらの墨書銘により初度の修理は文暦元年(一二三四)に実施され、天台座主をつとめた延暦寺(えんりゃくじ)僧承圓(しょうえん)によって開眼供養(かいげんくよう)が行われたこと、近世には比叡山(ひえいざん)東塔の無動寺(むどうじ)の什宝だったこと、「霊鷲山釈迦如来像」「霊山会釈迦像」等と呼ばれてきたことなどが判明し、鎌倉時代前期に制作された当初から一貫して比叡山に伝来したと考えられる。源信は正暦年中(九九〇~九九五)において比叡山横川(よかわ)に霊山院(りょうぜんいん)を建立し、本尊釈迦像に対して毎日生身供(しょうじんく)を行うとともに、毎月晦日に『法華経』を講じる霊山院釈迦講(しゃかこう)を行ったという。本図もこうした源信に始まる比叡山の霊山釈迦信仰の姿を具体的に伝えるものと考えられよう。
(谷口耕生)
源信 地獄極楽への扉. 奈良国立博物館, 2017.7, p.266, no.35.
釈迦の浄土と称される、天竺(インド)摩掲陀国の王舎城外にある霊鷲山中で、釈迦が説法し、諸菩薩・十大弟子・四天王・諸天部が聴聞する情景を表し、背後に霊鷲山の山並み、手前にも多めに自然景観を描いている。釈迦を初めとする諸像は、平安時代に確立された仏画の様式を基としながら、中国・宋の画風も取り入れて、華麗さに軽快さを加えた清新な趣を示す。自然景の表現は、特に下部において、山や岩、土坡、瀧と水面など地形の諸要素を含み、松や花咲く樹木も配しており、青緑の鮮やかな彩色も、唐風を基に平安時代に練り上げられた山水表現の様式を正しく受け継ぎ、情趣深いが、端正に整理され、やや沈静の感さえある点に、鎌倉時代らしさも示している。この部分は、全体の中でかなり大きい割合を占めており、単なる自然描写ではなく、霊鷲山に到るまでの道の表現であることが、他の諸作品を参照することによって明かとなり、この図を単なる説法図に留まらせず、釈迦の遺跡に対する憧憬を表す独特の図としている。
(中島博)
































