正面と背面に観音開きの扉をもうけた両開きの厨子。厨子内に奥壁を設け、一面には金銅板製の宝篋印塔形舎利容器を嵌装する。もう一面は慳貪式の板壁とし、表裏に絹本彩絵の如来坐像と胎蔵界種子曼荼羅の中台八葉院を貼付する。
宝篋印塔形舎利容器は全階式で、屋蓋部に対して塔身部を大きく表し、塔身部の中央には内部に蓮台を作り水晶板を嵌めた円孔があり、納めた舎利を外側から礼拝できる構造となっている。やや反りをもたせた軒先には小さく隅飾をつくり、相輪部と宝鎖でつないでいる。基台部の下にさらに基壇が作られていることなどからも、宝篋印塔形ではあるが宝塔を意図した造形とみられる。
他面の奥壁が慳貪式板壁の如来坐像は、定印を結んで掌上に輪宝を置くことから釈迦金輪像とみられる。板壁の裏面は胎蔵界種子曼荼羅中台八葉院であり、釈迦金輪と中尊胎蔵界大日如来を表裏の関係として表している。さらに本厨子は舎利と釈迦金輪・大日如来を表裏の関係とする構造と理解される。勧修寺を中心とする小野三流において舎利法と釈迦金輪は密接な関係にあり、本厨子は小野三流に関係する舎利厨子とみることができる。
附の法華経は粘葉装の書写経で八巻とも伝わり、厨子内部に納められていたものである。巻第八に奥書があり、嘉禄2年(1226)に孝阿弥陀仏によって書写されたことが知られる。
(永井洋之)
正背の両面に観音開きを扉をあけた木製黒漆塗の舎利厨子。現在、基壇上に軸部をのせるだけで屋蓋は失われている。分解可能であり、携帯用として用いられたと思われる。正面は奥壁に金銅製の宝篋印塔を嵌装し、塔身部に円形の水晶窓を開け中に舎利を納める。背面は取り外し可能の慳貪(けんどん)板をはめ、その片面に中台八葉院の種子曼荼羅を彩絵した絹本を、もう一方の面には如来坐像を描いた絹本を貼っている。この如来像は定印を結び、光背に輪宝を表す特徴から釈迦金輪像であることがわかる。慳貪板の奥には小さな空間があり、かつてここには紙本墨書の法華経冊子八冊が納置されていた。巻八の奥書によれば、この経典は嘉禄二年(一二二六)十月三日に孝阿弥陀仏が母の菩提を弔うために発願したことが知られる。舎利が末法の世の衆生を救済することを説いた『大陀羅尼末法一字中心呪経』には、舎利は一字金輪仏頂の種子ボロンと同体であると記されており、この説に基づき勧修寺や安祥寺を中心とする小野三流では、舎利法に金輪仏頂法がとりいれられた。勧修寺流祖寛信が行った舎利法は本尊に釈迦金輪像を懸け、印、真言、種子などは金輪仏頂作法を用いた。釈迦金輪をまつる本厨子は小野三流の舎利法を修めるために製作されたものと推定される。同流の舎利法に関係すると思われる遺品は多いとはいえず、本品は貴重な遺例に数えることができる。
(内藤栄)
仏舎利と宝珠―釈迦を慕う心, 2001, p.227