滝が落ちる岩山を背景として、円相状の光背を負った観音菩薩(かんのんぼさつ)が岩上に坐り、傍らに揚柳(ようりゅう)の枝をさした水瓶を置く。水面に映る月影を見つめる観音の姿は、中国唐代に成立したといわれる水月観音(すいげつかんのん)の図像を踏襲しつつ、水墨画に描いたものと考えられる。賛者の天庵妙受(てんあんみょうじゅ)(?〜一三四五)は臨済宗仏光派の人で、中国からの渡来僧である無学祖元(むがくそげん)に学び、南禅寺(なんぜんじ)などの住持を務めた禅僧。賛文中の「徳山」は景徳山(けいとくざん)の山号をもつ丹波安国寺(たんばあんこくじ)(京都府綾部市)を指し、同寺の開山となった建武年間(一三三四〜一三三八)頃の作と知られる。
(谷口耕生)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.273, no.196.
水墨画で表された水月観音像である。円相状の光背(こうはい)を負った観音が水中の奇岩上に坐し、傍らには揚柳(ようりゅう)の枝をさした水瓶(すいびょう)が置かれる。背景上方に切り立つ崖があって、一条の瀧が見える。このような画面は中国であらわされた著彩の補陀落山(ふだらくさん)にある水月観音像の図像を踏襲しており、これが水墨画に転じたものと捉えられる。特に頭頂から白い衣をまとう白衣観音(びゃくえかんのん)を、同じ舞台に描く作品は多く、南宋の禅林で流行し日本でも鎌倉時代以降、大陸の禅の影響下で、同様の作品が多く描かれた。本図は日本の初期水墨画の貴重な作例。白衣観音とも呼べるが、観音は左下方の水面(みなも)に映る月の影をみつめており、水、月のイメージの反映がみられる。上方には賛が墨書される。着賛者の天庵妙受(てんあんみょうじゅ)は、臨済宗(りんざいしゅう)仏光派(ぶっこうは)の人。無学祖元(むがくそげん)の弟子で、鎌倉の浄智寺、万寿寺、京都の真如寺、南禅寺に住し、建武年間(一三三四~一三三八)前後に丹波安国寺の開山となり、貞和元年(一三四五)、七十九歳で没した。賛に見える「徳山」とは、景徳山と号す安国寺を指している。したがって本図は、天庵妙受が安国寺にかかわった建武年間前後頃に製作された作品と知られる。
(北澤菜月)
西国三十三所 観音霊場の祈りと美, 2008, p.281
円相状の光背を負った水月観音像が、水中から立ち上がる奇岩上に坐し、その傍らに楊柳枝をさした水瓶を置き、左下方の水面に映る月影を静かに見つめる。背景上方の懸崖には一条の瀧が見える。白衣観音は胎蔵曼荼羅の蓮花部院中にも見られるが像容が異なる。本図のような姿の白衣観音は南宋禅林で発生したらしく、中国・宋元およびわが国鎌倉時代以降の作例が多い。
着賛をする天庵妙受(てんなんみょうじゅ)は、臨済宗仏光派の人で、無学祖元(むがくそげん)の高足、高峰顕日(こうぼうけんにち)の弟子である。鎌倉の浄智寺、万寿寺、京都の真如寺、南禅寺に住し、建武前後には丹波安国寺の開山にもなる。貞和元年(1345)に79歳で没した。「徳山」とは景徳山安国寺のこと。したがって本図は天庵が安国寺にかかわったころ、すなわち建武前後頃に制作されたと知られる。わが国初期水墨画の貴重な遺例である。当時は十一面観音や如意輪観音などの伝統的図像に水墨画技法を取り入れたものや、こうした白衣観音像のようにおそらく禅林で生まれ本来水墨画の画題として描かれたものが併存し、さらには画家によって絵としての完成度も様々である。本図の線描や水墨の表現には未だ仏画手法を脱しきらない変容期の特色がある。
(梶谷亮治)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.320, no.179.