平安京の神泉苑において行われた密教修法、請雨経法の道場を描いた図。本図は、延応二年(一二四〇)に醍醐寺(だいごじ)の実賢(じっけん)が請雨経法を行った際の様子で、左上に弘安二年(一二七九)に西大寺(さいだいじ)の叡尊(えいそん)が描いたとの朱書がある。
請雨経法は、降雨を祈る修法で、龍王(りゅうおう)を供養(くよう)して雨を降らせる。神泉苑(現在の二条城の南)は天皇の苑地(えんち)で、池には龍が棲(す)んでいると信じられていた。僧侶は池の傍(かたわ)らの仮屋(かりや)の中で修法を行った。請雨経法は道具類に全て青色を用いるため、道場を飾る幡(ばん)や供物、僧侶の衣も青で統一された。図の下方には結界中の立札が描かれ、不浄の者や赤色を身につけた者の立ち入りを禁じている。
(斎木涼子)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.256, no.84.
神泉苑は、平安京大内裏(だいだいり)の南東に天然の泉と低地を利用して営まれた園地で、9世紀後半以降、池に棲むと信じられた龍王に雨乞いを行う道場として定着していった。本図は、雨乞いの修法(しゅほう)の一つである請雨経法を、鎌倉時代の醍醐寺座主(だいごじざす)・実賢(じつげん)が執り行った際の様子を伝える写本である。
請雨経法は、大阿闍梨(だいあじゃり)と伴僧(ばんそう)による密教修法(壇法(だんぽう))や読経、龍王の供養、陰陽師による五龍祭(ごりゅうさい)などを組み合わせた複雑な儀式である。しかも7日間など期限を定めて行われ、もちろん成功するとは限らなかった。本図にも、修法壇・読経所(どきょうしょ)を設けた仮屋、その屋上に立てた13本の幡戟(ばんげき)、部外者の出入を禁じる立札などが描かれており、これらは大阿闍梨の威信をかけた修法の研究材料として書き伝えられたわけである。
実賢には請雨経法を3度行った記録がある。1度目の延応2年(1240)は期限を延長して辛うじて勤めを果たし、2度目の寛元2年(1244)は期限内に雨を降らせたが、3度目の宝治元年(1247)は失敗に終わっている。本図の内容は、1度目の絵図に2度目の変更点などを追記したもので、実賢の試行錯誤を伝えるものといえる。3度目の事例に本図が触れていないのは、やはり理由があるのだろうか。
画面左上の朱書(しゅがき)によると、本図は西大寺を再興したことで知られる叡尊(えいそん)が、弘安2年(1279)に写させたものであるという。叡尊の署名は自筆と認めがたいが、ほぼ同時代の写本と考えられている。鎌倉時代の神泉苑の実態を伝える絵図として貴重なだけでなく、龍王の存在を思わせる勢いある水の描写など、絵画的な見ごたえもある。
(樋笠逸人)
奈良国立博物館だより第103号. 奈良国立博物館, 2017.10, p.8.
平安京大内裏の南西に位置する神泉苑において行われた請雨経法の道場図。神泉苑は禁苑であり、天皇の遊幸、遊猟が行われていたが、時に疫病対策の仏事や御霊会(ごりょうえ)などが行われていた。請雨経法は、『大雲経(だいうんきょう)』請雨品、『大雲輪請雨経(だいうんりんしょううぎょう)』等にもとづき、龍王を供養し降雨を祈る修法で、九世紀末以降は神泉苑においてたびたび修された。本道場図は、延応二(一二四〇)年に醍醐寺座主実賢(じっけん)が執り行った際のもので、画面左上には、弘安二年(一二七九)に西大寺の叡尊(えいそん)が描いたとの朱書がある。図は、池の部分が水色に着色され、中島の樹木なども描き込まれている。道場の敷設も詳細に描かれ、様々な説明事項も添えられている。母屋には十三旒の幡、道場内に二十八旒の幡が懸けられているが、請雨経法はこうした道具類に青色のものを用いるため、幡や供物、法衣は青色で統一される。このほか、神泉苑には大師御影、大壇、十二天供、水天供、聖天供、孔雀経読経所が設けられ、また同時に陰陽道(おんみょうどう)の五龍祭(ごりゅうさい)も行われた。九世紀後半には、神泉苑に龍が棲(す)んでいると認識されており(『三代実録』貞観十七年六月二十三日条ほか)、この龍の存在によって請雨経法の適地とされたのであろう。
(斎木涼子)
国宝 醍醐寺のすべて―密教のほとけと聖教―, 2015, p.269
京都の神泉苑において、延応二年(一二四〇)に醍醐寺座主の実賢(一一七六~一二四九)が主催して執り行われた、請雨経法(雨乞い)の様子を描いた図。当時につくられた原図は残らず、本品はその写しである。中央やや上よりに池があり、中島が浮かんでいる。池の水が渦を巻いて流れる様を墨線で表し、さらに白緑で彩色する。池の下方(北)には請雨の壇所である「仮屋」や、立ち並ぶ13本の幡などが描かれ、修法の本尊として孔雀明王像が懸けられたことも見えている。幡が立ち並ぶ様子は、池の上方に拡大されて再び描かれる。現在知られている神泉苑の古図には、本品より古い年紀を持つものもいくつかあるが、これほど精緻に描かれたものは他に例がない。神泉苑の図として、また鎌倉時代における請雨経法の実際を知る資料として価値が高い。なお、画面左上の朱書によれば、本図は、実賢による修法から四十年近くを経た弘安二年(一二七九)に、西大寺中興の祖である叡尊(一二〇一~一二九〇)が描いたという。実際に叡尊が筆を執ったか否かは不明だが、本図の成立に彼が大きな役割を果たしたことは間違いなかろう。
(野尻忠)
神泉苑で請雨経法が修された際の指図を、西大寺を中興した叡尊(1201~1290)が写したもの。紙背には「西大寺大慈院」と「高俊」の朱印が捺されている。
中央やや上よりに池。渦を巻いて流れる水の様は練達した墨線で表わし、さらに白緑で彩色している。池の下方(北)には祈雨の壇所である「仮屋」や、立ち並ぶ13本の幡などが描かれ、修法の本尊として孔雀明王画像が懸けられたことも見えている。幡が立ち並ぶ様子は、池の上方に拡大されて再び描かれている。
原本は、醍醐寺座主の實賢(1176~1249)が延応2年(1240)7月に修法をおこなった折に、東寺の厳成法印が図したものと考えられる。図の中には「押紙云」で始まる朱による書入れが多く見られる。この押紙とは、實賢が寛元2年(1244)6月に再び請雨経法を神泉苑で修した折に、追加事項を記して付した押紙のこと。
現在知られている神泉苑の古図は、永久2年(1117)6月に醍醐寺僧正勝覚を阿闍梨としておこなわれた祈雨の指図を、鎌倉時代に高山寺の定真(明恵上人の弟子)が写したものを最古とし、他にも数点存在するが、本図のように精緻なものは他に例がない。指図としては大幅で、神泉苑図として、また鎌倉時代における祈雨修法の実際を知る資料として価値が高い。さらに叡尊によって弘安2年(1279)5月に写されたことが注記から判明するが、これは『感身学正記』や『行実年譜』などに見えない事柄であり、叡尊の行実の一端を知り得る史料としても貴重である。
(西山厚)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.306, no.129.















































