不動明王18図に、不動の眷属である八大童子や、不動の変化身とされる倶哩迦羅龍王の姿を加えた合計31図からなる白描図像。多頭多臂像など、他に例を見ない特異な図像が数多く含まれる点で極めて高い価値を有しており、その中には高野山で得た旨を記す図像も含まれる。料紙は漉き返した紙を用いた薄墨色を呈するもので、流麗な筆致によって細部まで的確に尊容が捉えられる。巻末の奧書から本品は、寛元3年(1245)に天台僧兼胤により、同じく天台僧快雅の所持本を原本として、鎌倉の地で写されたことが知られる。兼胤はこの時、師の慈胤に従って鎌倉に下向したようであるが、この慈胤は快雅の弟子に当たることから、その縁で快雅所持本を披見することができたに違いない。この時期、多くの天台僧が鎌倉に招かれ、天台密教を代表する事相書である『阿娑縛抄』も鎌倉で編纂されており、本品の書写も同一の時流に乗るものといえるだろう。
不動明王の異形像を多く集めた図像集である。十八図の不動明王像、二図の八大童子像などあわせて三十図を描く。通例の不動明王像と異なる多面多臂像を多く収録しているのが注目されるが、これらの内には高野山にて図を得た旨の注記があり、東密系図像を積極的に収集していることがわかる。奥書によれば本書は功徳院僧正快雅(かいが)の所持本を写したものであることが知られるが、快雅は平安末期から鎌倉初期に活躍した天台宗の僧である。つとめて東密側の図像を収集したことが他の資料からも知られる。寛元三年(一二四五)に鎌倉の地で当図像集を書写した兼胤(けんいん)は、他にも『行林鈔』八十二巻を同じ鎌倉で写している。書写僧兼胤は師である慈胤(じいん)にしたがって鎌倉に下向したと思しいが、この慈胤は功徳院僧正快雅の弟子にあたる。その縁で兼胤は鎌倉滞在中の快雅所持本を写すことができた。当時の鎌倉ではあたかも台密側の事相書である『阿娑縛抄(あさばしょう)』が編集されつつあったのであり、多くの図像集が集められ盛んに研究されたのであろう。
(奥書)「已上能々校之了本文字不見事多不定之所以本軌可校合之 寛元三年五月十一日於相州鎌倉名越之禅房以本功徳院僧正御本書寫訖 遍照金剛兼胤 [廿六/十四] 注之」
(梶谷亮治)
明王展―怒りと慈しみの仏―, 2000, p.185