六種類の観音の図像を収集した巻子本の図像集。奥書に「洛東清水僧定深為興法畧記之于時承暦二年六月而已」とあり、後に清水寺別当を務める定深が承暦2年(1078)6月に写したものである旨が記されている。しかし巻末裏書に応徳2年(1085)を応保2年(1162)と誤記していることから、承暦2年書写の定深本を平安末期頃に改めて写したものであると考えられる。全体の構成は「聖観音」「千手観音」「馬頭観音」「不空羂索観音」「白衣観音」「如意輪観音」の順になっており、六観音を意識したものと考えられるが、「如意輪」の最後に如意輪観音の六臂が六道・六観音に対応するという定深の独自の解釈が記されていることから、結局のところ定深の如意輪観音に対する信仰が本品の制作背景にあったと考えられる。なお本図像集には、二臂の如意輪観音像として信仰を集めた石山寺本尊を写したと見られる図像が収められている。創建当初の石山寺本尊像は承暦2年正月に焼失しており、そのわずか6ヶ月後に定深が本図像集を製作した動機も、この出来事が関係していた可能性がある。
様々な観音の図像を収集した巻子本の図像集。奥書に「洛東清水僧定深為興法畧記之于時承暦二年六月而已」とあり、後に清水寺(きよみずでら)別当を務める定深が承暦二年(一〇七八)六月に写したものである旨が記されている。しかし巻末裏書に応徳二年(一〇八五)を応保二年(一一六二)と誤記していることから、承暦二年書写の定深本を平安末期頃に改めて写したものであると考えられる。全体の構成は「聖観音」「千手観音」「馬頭観音」「不空羂索観音」「白衣観音」「如意輪観音」の順になっており、六観音を意識したものと考えられるが、「如意輪」の最後に如意輪観音の六臂が六道・六観音に対応するという定深の独自の解釈が記されていることから、結局のところ定深の如意輪観音に対する信仰が本品の制作背景にあったと考えられる。さて、本品には六観音のうち畜生道救済の観音として、馬頭観音の図像が九図収められている。その中で最も多い三図を数える三面八臂の坐像は、平安後期以降に馬頭観音像の定型化したイメージとして最も流布したものだった。馬頭観音項の四番目に掲げられる図像は、金沢文庫本『諸尊図像集』巻上に掲載される「法成寺馬頭観音様」と呼ばれるものに一致しており、これらの図像が実際の造像に結実していた事実を確認するこができる。そもそも馬頭観音の本格的な造像は、六観音信仰を背景として十一世紀からにわかに盛んとなることが指摘されており、本品の諸像はまさにそうした時期の馬頭観音像の諸相を伝えるものとして貴重である。
(谷口耕生)
天馬 シルクロードを翔ける夢の馬, 2008, p.233