六種類の観音(聖観音・千手観音・馬頭観音・不空羂索観音・白衣観音・如意輪観音)のさまざまな姿を集めた図像集。全体の構成からは六観音を意識して図像が収集されたことがうかがわれ、奥書には、後に清水寺(きよみずでら)の別当を務める僧・定深(じょうしん)が承暦二年(一〇七八)に著した旨を伝える一文がある。ただし裏書に年号の誤記が認められることなどから、本巻は定深本を平安時代末期頃に写したものとみられる。
十一面観音の代わりに白衣観音を含む点や、天台系の図像を多数集める点に特徴が認められるが、聖観音の四図目には「大安寺東塔丑寅角柱(金)岡手跡様也」と注記のある聖観音像が収められており注目される。すなわち、大安寺東塔の東北の角柱に描かれていたという像である。この柱はおそらく心柱を取り囲む四天柱のことと思われる。
大安寺は、中心伽藍の南側に設けられた塔院に七重の東西塔が立っていた。出土した瓦から、東塔は奈良時代後期、西塔はそれに遅れる平安時代初めに建立されたと考えられている。柱絵も塔の造立後まもなく描かれたものであろう。西塔は天暦三年(九四九)に、東塔は永仁四年(一二九六)に雷火によって焼失した。
さてこの聖観音像は、右斜め方向を向き、左手に蓮茎を執り、右手を垂下させて須弥座上の蓮華座に右足を踏み下げて坐す姿で、注記では典拠として『不空羂索経(ふくうけんさくきょう)』第九の諸説を挙げている。また「件像者啚三十三身所変」とし、『法華経(ほけきょう)』普門品(ふもんぼん)に説かれる観音の三十三種の変化身にも言及しているが、これのみではこの像がどういった絵を構成するものであったか定かではない。ただ保延六年(一一四〇)頃に大江親通が著した『七大寺巡礼私記』には東塔の心柱の四面に「曼荼羅之様」が描かれていたとあり、柱には何らかの仏菩薩の群像が表されていたかと考えられる。
この聖観音はまた、奈良時代に描かれた図様を伝えている点でも貴重であり、斜め向きの姿勢や掌を内側に向けて垂下する特徴的な手のかたちが、十一面観音像(国宝、奈良国立博物館蔵)など、後の時代に南都で描かれたとみられる復古的な作例に採用されていることも注意される。この像が、確たる位置づけをもつ図様として本巻に収載されたと想像できよう。
なお『七大寺巡礼私記』によれば、東塔には他に柱や連子窓下の小壁に獅子の絵があり、勝鬘夫人(しょうまんぶにん)像が安置されていたといい、醍醐寺本『諸寺縁起集』は、東西塔のいずれとは明示していないものの、壁に中国・梁の武帝と宝誌和尚(ほうしおしょう)が面会するさまが描かれていたと伝えている。
(萩谷みどり)
大安寺のすべてー天平のみほとけと祈りー. 奈良国立博物館, 2022.4, p.157, no.14.
六種の観音(聖観音(しょうかんのん)・千手観音(せんじゅかんのん)・馬頭観音(ばとうかんのん)・不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)・白衣観音(びゃくえかんのん)・如意輪観音(にょいりんかんのん))のさまざまな姿を集めた図像集。後に清水寺(きよみずでら)の別当(べっとう)を務める僧・定深(じょうしん)が承暦二年(一〇七八)に記したことを伝える奥書があるが、裏書に年号の誤記が認められることなどから、定深本を平安末期頃に写したものとみられる。
その構成から六観音(ろくかんのん)への信仰を意識しているとみなされるが、十一面観音の代わりに白衣観音を含む点や、天台系の図像を多数集める点に特徴がある。また如意輪観音の図像が多く集成され、如意輪の六本の手が六道(ろくどう)、六観音に対応するとの見解が巻末に記されている。
(萩谷みどり)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.256, no.87.
六種類の観音の図像を収集した巻子本の図像集。奥書に「洛東清水僧定深為興法畧記之于時承暦二年六月而已」とあり、後に清水寺別当を務める定深が承暦2年(1078)6月に写したものである旨が記されている。しかし巻末裏書に応徳2年(1085)を応保2年(1162)と誤記していることから、承暦2年書写の定深本を平安末期頃に改めて写したものであると考えられる。全体の構成は「聖観音」「千手観音」「馬頭観音」「不空羂索観音」「白衣観音」「如意輪観音」の順になっており、六観音を意識したものと考えられるが、「如意輪」の最後に如意輪観音の六臂が六道・六観音に対応するという定深の独自の解釈が記されていることから、結局のところ定深の如意輪観音に対する信仰が本品の制作背景にあったと考えられる。なお本図像集には、二臂の如意輪観音像として信仰を集めた石山寺本尊を写したと見られる図像が収められている。創建当初の石山寺本尊像は承暦2年正月に焼失しており、そのわずか6ヶ月後に定深が本図像集を製作した動機も、この出来事が関係していた可能性がある。
様々な観音の図像を収集した巻子本の図像集。奥書に「洛東清水僧定深為興法畧記之于時承暦二年六月而已」とあり、後に清水寺(きよみずでら)別当を務める定深が承暦二年(一〇七八)六月に写したものである旨が記されている。しかし巻末裏書に応徳二年(一〇八五)を応保二年(一一六二)と誤記していることから、承暦二年書写の定深本を平安末期頃に改めて写したものであると考えられる。全体の構成は「聖観音」「千手観音」「馬頭観音」「不空羂索観音」「白衣観音」「如意輪観音」の順になっており、六観音を意識したものと考えられるが、「如意輪」の最後に如意輪観音の六臂が六道・六観音に対応するという定深の独自の解釈が記されていることから、結局のところ定深の如意輪観音に対する信仰が本品の制作背景にあったと考えられる。さて、本品には六観音のうち畜生道救済の観音として、馬頭観音の図像が九図収められている。その中で最も多い三図を数える三面八臂の坐像は、平安後期以降に馬頭観音像の定型化したイメージとして最も流布したものだった。馬頭観音項の四番目に掲げられる図像は、金沢文庫本『諸尊図像集』巻上に掲載される「法成寺馬頭観音様」と呼ばれるものに一致しており、これらの図像が実際の造像に結実していた事実を確認するこができる。そもそも馬頭観音の本格的な造像は、六観音信仰を背景として十一世紀からにわかに盛んとなることが指摘されており、本品の諸像はまさにそうした時期の馬頭観音像の諸相を伝えるものとして貴重である。
(谷口耕生)
天馬 シルクロードを翔ける夢の馬, 2008, p.233

