平安時代後期、末法思想が広がる中、仏教を深く信仰していた人々は霊地や聖地に経塚を築き、経典を地中に埋納した。経筒はその経典を納めるための容器であり、銅製や陶製、滑石製など、様々な材質で作られた。
本品は経塚造営のメッカの一つ、北部九州で出土したとされる銅製の経筒である。短い円筒を4段積み上げて筒身を作っている。蓋(ふた)は塔の屋根を模した形で、頂部に相輪(そうりん)を立てる。経筒を塔形につくる例はしばしばあるが、これは釈迦の教えを説いた教典を舎利(しゃり)(釈迦の遺骨)に見立て、その舎利を塔に納めるイメージから経筒を塔形に仕立てたのだろう。
この経筒の最大の見どころは、筒身の表面に流麗な筆致で彫られた線刻画である。合掌姿の普賢菩薩(ふげんぼさつ)、薬王(やくおう)・勇施(ゆせ)の二菩薩、持国(じこく)・多聞(たもん)の二天、中国風の装いの十羅刹女(じゅうらせつにょ)が表され、彼らは法華経や、法華経を読む人々の守護者であるので、経筒にふさわしい図像として選ばれたのだろう。
筒身の銘文からは、保延7年(1141)に埋納されたものであることがわかる。紀年銘のある普賢十羅刹女の図像としてはわが国最古のもので、美術史的にも大変貴重な出土品である。
(中川あや)
奈良国立博物館だより第125号. 奈良国立博物館, 2023.4, p.8.
四段積上げ式の銅製経筒で、蓋、筒身、台座の三部で構成される。蓋は塔の屋根を思わせる傘蓋で、頂部を伏鉢状に大きく盛上げ、相輪を取り付ける。筒身は円筒を四段に高く積み上げたものであるが、個々の円筒は別作りされたものではなく、元は一本の円筒を鋸で四つに切り分けたものである。筒身の表面には合掌姿の普賢菩薩と、それをとりまくかたちで薬王・勇施の二菩薩、持国・多聞の二天、そして唐装の十羅刹女像が全面にわたって流麗な筆致で線刻されている。法華経陀羅尼品によれば、二菩薩、二天、十羅刹女は、法華経の護持者を守護することを本誓とした者であり、これを描くことは経筒への最高の荘厳に他ならない。図像の脇には「保延七年〈歳次辛酉〉二月十五日 勧進〈延暦寺 族姓大神 僧定尋 長 壽 丸〉」の銘があり、延暦寺の定尋という勧進僧の活躍により、保延七年(一一四一)に埋納されたことが知られる。台座は段をもって裾を広げ、裾端は切れ込みを入れて七弁の花形に飾っている。この台座の裏面には墨書があり「陳□」と読める。「陳」の字が右上に寄って書かれているため、他にも文字が存在するはずであるが、緑青の被覆によって読むことが出来ない。「陳」の墨書銘は銅製経筒(九州国立博物館蔵)の他、伝四王子山出土の陶製経筒(九州国立博物館蔵)にも見ることができ、経塚造営に手広く関与していた集団と推測される。なお、本品に描かれた普賢十羅刹女像は、兵庫県鶴林寺の太子堂(天永三年〔一一一二〕頃の建立)の壁画に次いで我が国では二番目に古い図像である。紀年銘を伴う図像としては最古となる。十羅刹女の図像が将来された経緯を考える場合、陳に表象される宋人の関与や天台宗僧侶の勧進活動など、本品に備わる情報に非常に示唆的であると言えよう。
(吉澤悟)
聖地寧波 日本仏教1300年の源流~すべてはここからやって来た~, 2009, p.279-280

