左手を腰に当て、右手を高く挙げて持物(欠失)を握り、左足で全身を支え、右足を高く挙げる蔵王権現像。本像の場合、姿勢を正すかのように、顔を正面に向け、上体を真直ぐに起こし、左足を垂直に立てて、力感と緊迫感を内に籠めている。このような威力ある表現は、初期の蔵王権現の姿を髣髴させる。均衡の整った頭体部、豊かな胸の肉取り、細身の手足などには平安後期(12世紀)の特色があらわれている。しかし、目鼻の造作が大きく、目が吊り上り(二眼)、上歯が唇を噛む顔つきは厳しく、当代の蔵王権現像としては古様である。条帛、腰布、裙を身にまとうものの、蔵王権現が身につけるべき獣皮はみえない。裙の下端を両足にそれぞれ巻き込み、その先が両膝頭辺で舌状に跳ね上がるが、これは初期の図様の継承とみてよいだろう。臘型鋳造で、双髻の後半分と右足裏に像内へ通じる孔があり、中型の支柱を通したかと推測される。銅厚は薄く、背面裳裾に型持の大きさほどの埋め金が外れたままにある。表面は鬆が多いものの、鍍金を施す。頭上の宝冠(三鈷冠か)は欠失。体躯の正面側には、瓔珞を留めた孔(数個所)がある。古式の形制を残した平安後期の蔵王権現であり、秀作のひとつに挙げられよう。
(鈴木喜博)
眼を見ひらき、髪を逆立てて忿怒(ふんぬ)の相を表し、左足は岩を踏み、右足は大きく跳ね上げる姿。修験道(しゅげんどう)の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)が大峯山において感得したという蔵王権現(ざおうごんげん)が、盤石(ばんじゃく)の巌(いわお)の中から出現した様を表すもの。その作例は平安時代前期から現れるが、隆盛期は平安時代後期であり、本像もいかにも王朝風の整斉美を感じさせる造形である。蔵王権現像には木彫(もくちょう)もあるが、山岳寺院の過酷な安置条件を考慮してか、銅造のものが多く、まれに鉄製の作品もある。
(岩田茂樹)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.122, no.164.
蔵王権現は役行者(えんのぎょうじゃ)が金峰山(きんぷせん)中で感得したと伝える尊像で、修験道(しゅげんどう)における護法神的存在として厚く信仰され、各地の霊山に遺品が伝わる。口を開いて怒号する像が多いが、本像のように上歯列を剥(む)き出して下唇を噛む形式もときおりみられる。振り上げた右手には金剛杵(こんごうしょ)を握っていたものであろう。左足一本で立ち、右足を高く持ち上げる点は通例にしたがうが、頭部から左足先までほぼまっすぐに立つ姿勢は珍しい。両膝裏に翻(ひるがえ)る突起状の裳(も)の先端が像容にアクセントを付与している。全体を一鋳するらしく、内部は中空になる。肉厚はきわめて薄く、鋳(い)上がりも良い。腰裳背面中央の大きな孔は鋳造(ちゅうぞう)時のずれを防ぐためのハバキの痕かとみられる。そのほか、像表面の各所に、やはり鋳型(いがた)がずれないために施された笄(こうがい)の抜き痕も認められる。概しておとなしい表現だが、破綻(はたん)のないまとまった造形は推賞されよう。制作期は平安時代後期(十二世紀)と推測され、この時期の蔵王権現像を代表するに足る佳品である。
(岩田茂樹)
平成十二年度国立博物館・美術館巡回展 信仰と美術, 2000, p.33
蔵王権現は、役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山(きんぷせん)で感得(かんとく)したと伝えられる修験(しゅげん)の神で、作り始められる平安時代後期には姿が一定せず、鎌倉時代初期に固定されるようになる。
本像はその穏やかな作風から平安後期の作と考えられるが、多くの像が軸足を斜めに伸ばした姿とするのに対してまっすぐに立てること、腰に当てる左手を刀印(とういん)とせずに五指を伸ばした形とすること等の特色があり、古様な表現と考えられている。現在は失われているが、振り上げた右手には、独鈷杵(とっこしょ)あるいは三鈷杵(さんこしょ)を握っていた穴があけられ、また髻の前方には炎髪が差し込まれていたであろう円孔が残る。また像の各所にも円孔が残り、別製の瓔珞(ようらく)が付けられていたことも判明する。衣部の表現では、両膝辺りの裳の一部を跳ね上げるように表すのは、像の伸び上がる力を示すのに成功している。
全身を一鋳で仕上げ、表面には鍍金が残る。髻の後方から頭頂後半部にかけてと、裳の背面が開口部となり、鋳造時のハバキとしていたものである。
(井上一稔)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, pp.295-296, no.84.