安東円恵(あんどうえんえ)(一二八五〜一三四三)は俗名を安東治右衛門助泰(あんどうじうえもんすけやす)といい、鎌倉幕府の有力な武将だったが、鎌倉の円覚寺(えんがくじ)や建長寺(けんちょうじ)に住した渡来僧・西澗子曇(せいかんしどん)について禅をおさめ、晩年には禅僧として上野国長楽寺(ちょうらくじ)(群馬県太田市)の住持を務めた。本図は、法被(はっぴ)(布)をかけた曲彔(きょくろく)(椅子)に坐るという禅宗の頂相に倣う形式を踏襲し、上部に元徳元年(一三二九)に元から来朝した高僧・明極楚俊(みんきそしゅん)が着賛している。細緻な墨線で面相を生き生きと描き出し、鎌倉武士の出家姿にふさわしい凜然たる容姿を誇る肖像画の名品である。
(谷口耕生)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.274, no.200.
武将の法体肖像画のうち、特に禅宗の頂相に倣う形式のものは、鎌倉幕府の執権北条時頼(ほうじょうときより)をはじめとする北条得宗家の禅に対する深い理解を契機にして、時頼の没年(1263)頃にはじめて成立した。以降、得宗家の頂相形式の肖像画は鎌倉時代を通じて展開したが、本図もその系譜に倣うものと考えられる。
安東円恵(1285~1343)は、鎌倉幕府の有力な武将で六波羅探題の被官である。俗名は安東治右衛門助泰という。渡来僧であり鎌倉の円覚寺や建長寺に住した西澗子曇(せいかんすどん)について禅をおさめ、はじめ在俗の居士となり晩年には禅僧南叟円恵として上野国長楽寺に住した。得宗家被官、御内人の安東蓮聖(1240~1330)の子である。
像容は頂相に同じで、法被をかけた椅子の上に趺坐し、面相は細勁な墨線で描写し、ひかえめな隈取りを施している。特に面貌は対看写照の厳しさを見せている。小花文を散らす着衣は豪華な舶載の裂、当時の唐物趣味をかいま見せる。上部には賛文がある。図は円恵が居士の時のものであり、禅の法嗣に与える頂相ではないから自賛とはせず、ちょうど元徳元年(1329)に中国・元から来朝した臨済宗楊岐派松源派の高僧である明極楚俊(みんきそしゅん)の着賛を得ている。俊明極は翌元徳2年の春頃には鎌倉建長寺に住した。ちなみに円恵はこの時父蓮聖の肖像画(遺像)とかつて久米田寺に住した禅爾(ぜんに)の肖像画(現存しない)と併せて三幅に賛を請うている。賛と像主の関係は像主の記念を目的とする遺像における関係に同じである。すぐれた肖像画であると同時に、明極楚俊の墨跡としても注目される。
(梶谷亮治)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, pp.318-319, no.175.