男子供養者(くようしゃ)の小像。像底にヒノキ材製の楕円形の底板を置き、その上に断面が方形を呈する心木を立て、藁縄(わらなわ)を巻き塑土(そど)を盛り付けて制作される。表面の彩色(さいしき)はほとんどが剝落(はくらく)し、いま黄土色の仕上土(しあげつち)が露出する。面相部の自然な肉づけや微妙な起伏をとらえた体軀(たいく)は、モデリングを駆使した塑像(そぞう)ならではのもので、写実を追求した奈良時代の作風がみて取れる。本像の構造および作風は、和銅四年完成の法隆寺(ほうりゅうじ)五重塔(ごじゅうのとう)初層に安置される塔本四面具(とうほんしめんぐ)と呼ばれる塑像群と共通するため、元来はこの群像を構成する一軀だったと考えられる。
(山口隆介)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2022, p.154, no.212.
五重塔の初層、心柱(しんばしら)を中心とした東西南北の四面に築かれた塑壁(そへき)を背景に安置される塑像群の一部で、法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳(がらんえんぎならびにるきしざいちょう)に記載される和銅四年(七一一)完成の「塔本四面具(とうほんしめんぐ)」に該当するとみられる。
像の種類は如来や菩薩をはじめ侍者、羅漢などバラエティーに富み、塑土の特質を活かした柔軟で自然な表現が認められる。特に目を引くのは北面に配された釈迦の入滅(にゅうめつ)を嘆き悲しむ羅漢像だろう。声を上げてむせび泣く者や歯を食いしばって天を仰ぐ者など、悲痛な声がこちらへと届くかのような迫真の描写である。北面の羅漢像の制作年代をほかの塑像より下げる見方もあるが、卵形の頭部や胴長の体軀(たいく)は、東面および北面の菩薩像に通じる。また、顔の皺(しわ)や肉体の描写を微妙に違えることによって老壮の差を表しているのも見逃せない。
先学による解説、および出陳にあたり実施されたX線CTスキャン調査によって構造をみると、いずれの像も基本的にはほぼ同一とみられ、底部に楕円形の板を置き、そこから土の喰みつきをよくするため藁縄を巻いた心木を立たせ、荒土、中土、仕上げ土の順に盛りつけて成形する。心木はほとんどが頭部にまで達しており、羅漢像は姿勢に応じて心木を曲げる、あるいは材をつぎ足すといった方法がとられている。体幹部から離れる両腕は、銅線を心として造っているが、いずれも心木には貫重しないため、心木に荒土をつけた段階で差し込んだものとみられる。また、東面の侍者像や北面の羅漢像の一部には、やはり体から離れる衣の端に銅板を芯として用いている。当初は彩色(さいしき)が施されていたが、ほとんどは剝落(はくらく)するか、後世のものに覆われており、各所で黄土色を呈する仕上げ土が露出する。塑土にも後補される部分が少なくないが、全体として当初の姿をなお留めており、写実性を追求した奈良時代を代表する、記念碑的な作品群である。
すでに指摘のあるとおり、群像に共通する卵形の頭部や胴長の体軀、細い腕といった諸点が敦煙莫高窟(とんこうばっこうくつ)第三二八窟に通じるなど、遺唐使(けんとうし)がもたらした中国の最新情報を受けての造像であったと考えられる。
(内藤航)
聖徳太子と法隆寺. 奈良国立博物館, 2021.4, p.331, no.207.
まっすぐに正面を向き、腹前で両手を合わせて正座する男子供養者(くようしゃ)の小像。像底にヒノキ材を用いた楕円形の底板を置き、そのやや後方の位置に方形の心木を立て、藁縄(わらなわ)を巻いたうえで塑土(そど)を盛り付けて制作される。表面にほどこされた彩色は、ほとんど剝落(はくらく)し、いま明るい黄土色の仕上げ土が露出している。表面の磨滅により顔立ちがいくぶん不明瞭で、右腰脇に損傷があるものの、両相部の自然な肉付けや微妙な起伏をとらえた体躯(たいく)の表現は、モデリングを駆使した塑像ならではのもので、写実を追求した奈良時代の特色をみることができる。本像の構造及び作風は、奈良・法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔初層に安置される塔本四面具(とうほんしめんぐ)と呼ばれる塑像群と共通するため、元来は群像を構成する一躯だったと考えられる。塔本四面具とは、心柱を中心に塑土で山岳をあらわし、四面に塑像群を配して仏典中の諸場面を再現したもので、中国では南北朝時代から唐代にかけて盛行したが、ほぼ完全な姿が伝えられるのは、大陸もふくめ法隆寺五重塔に限られる。天平十九年(七四七)の『法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳(ほうりゅうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』によれば、中門の金剛力士像とともに和同四年(七一一)に完成をみたようで、東面は維摩詰像土(ゆいまきつぞうど)、北面は涅槃像土(ねはんぞうど)、西面は分舎利仏土(ぶんしゃりぶつど)、南面は弥勒仏像土(みろくぶつぞうど)とそれぞれしるされる。このうち南面は後世の補修が多く、また残る三面には、いずれも本像に類する供養者像がふくまれることから、本像の当初の安置場所は明らかにしがたい。
(山口隆介)
開館一二〇年記念白鳳―花ひらく仏教美術―, 2015, p.254
木の骨組みに藁縄(わらなわ)を巻き、その上に塑土(そど)(粘土)を盛り上げてつくった像。中心に近い部分は藁などを混ぜた粗い土で、表面の仕上げにはよりきめの細かい土が用いられる。もとは法隆寺五重塔内にあった釈迦の伝記の一場面をあらわした群像中の一体。
(岩井共二)
みほとけのかたち 仏像に会う. 奈良国立博物館, 2013.7, p.95, no.61.
仏舎利(ぶっしゃり)(釈迦の遺骨)を心礎に祀(まつ)る法隆寺五重塔の初層には、四面に山岳の景観を背景として群像を配し、釈迦の涅槃(ねはん)など四場面が表現されている。この小さな男子供養者像は、かつてその中の一体として安置されていた像で、腹前で手を合わせて正座する。木に藁縄(わらなわ)を巻き、その上に土をつけて制作されており、柔軟で自然な肉付けに、奈良時代の塑像の写実的な作風がうかがえる。当初の位置は明らかでないが、仏舎利を中核とする祈りの場に奉仕する一員であったことが明白な、貴重な遺品である。
(稲本泰生)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.123, no.166.
両手を腹前で組み合わせ、正座した男子形の侍者像。像底にヒノキ材の楕円形の板を用い、その上に心木(しんぎ)を立て、藁縄(わらなわ)を巻き塑土(そど)で造形し、彩色を施すが、彩色はほとんど剥落して白っぽい仕上げ土が全面に露出している。
本像は作風、法量、技法から判断して奈良・法隆寺五重塔初層の塔本塑像の群像中の一体であったとみられる。天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によると、この塔本塑像は和銅4年(711)に造立され、東面は維摩詰像土(ゆいまきつぞうど)、南面は弥勒仏(みろくぶつ)像土、西面は分舎利(ぶんしゃり)仏土、北面は涅槃(ねはん)像土であったことが知られる。この中の当初像はいずれも塑造ならではの柔軟で自在な造形が特色で、本像もその範疇にあるが、面相部や右膝部に若干損傷を被り、表情がもう一つ明確ではないのが残念である。
こうした侍者像は、安置像に大きな改変が認められる南面を除いた三面のいずれにも安置されており、さらに、現在の配置が造立当時とは変容している部分もあると考えられるため、本像が当初どの場面のどこに安置されていたかは定かでない。
(礪波恵昭)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.292, no.71.