まっすぐに正面を向き、腹前で両手を合わせて正座する男子供養者(くようしゃ)の小像。像底にヒノキ材を用いた楕円形の底板を置き、そのやや後方の位置に方形の心木を立て、藁縄(わらなわ)を巻いたうえで塑土(そど)を盛り付けて制作される。表面にほどこされた彩色は、ほとんど剝落(はくらく)し、いま明るい黄土色の仕上げ土が露出している。表面の磨滅により顔立ちがいくぶん不明瞭で、右腰脇に損傷があるものの、両相部の自然な肉付けや微妙な起伏をとらえた体躯(たいく)の表現は、モデリングを駆使した塑像ならではのもので、写実を追求した奈良時代の特色をみることができる。本像の構造及び作風は、奈良・法隆寺(ほうりゅうじ)の五重塔初層に安置される塔本四面具(とうほんしめんぐ)と呼ばれる塑像群と共通するため、元来は群像を構成する一躯だったと考えられる。塔本四面具とは、心柱を中心に塑土で山岳をあらわし、四面に塑像群を配して仏典中の諸場面を再現したもので、中国では南北朝時代から唐代にかけて盛行したが、ほぼ完全な姿が伝えられるのは、大陸もふくめ法隆寺五重塔に限られる。天平十九年(七四七)の『法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳(ほうりゅうじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)』によれば、中門の金剛力士像とともに和同四年(七一一)に完成をみたようで、東面は維摩詰像土(ゆいまきつぞうど)、北面は涅槃像土(ねはんぞうど)、西面は分舎利仏土(ぶんしゃりぶつど)、南面は弥勒仏像土(みろくぶつぞうど)とそれぞれしるされる。このうち南面は後世の補修が多く、また残る三面には、いずれも本像に類する供養者像がふくまれることから、本像の当初の安置場所は明らかにしがたい。
(山口隆介)
開館一二〇年記念白鳳―花ひらく仏教美術―, 2015, p.254
仏舎利(ぶっしゃり)(釈迦の遺骨)を心礎に祀(まつ)る法隆寺五重塔の初層には、四面に山岳の景観を背景として群像を配し、釈迦の涅槃(ねはん)など四場面が表現されている。この小さな男子供養者像は、かつてその中の一体として安置されていた像で、腹前で手を合わせて正座する。木に藁縄(わらなわ)を巻き、その上に土をつけて制作されており、柔軟で自然な肉付けに、奈良時代の塑像の写実的な作風がうかがえる。当初の位置は明らかでないが、仏舎利を中核とする祈りの場に奉仕する一員であったことが明白な、貴重な遺品である。
(稲本泰生)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.123, no.166.
両手を腹前で組み合わせ、正座した男子形の侍者像。像底にヒノキ材の楕円形の板を用い、その上に心木(しんぎ)を立て、藁縄(わらなわ)を巻き塑土(そど)で造形し、彩色を施すが、彩色はほとんど剥落して白っぽい仕上げ土が全面に露出している。
本像は作風、法量、技法から判断して奈良・法隆寺五重塔初層の塔本塑像の群像中の一体であったとみられる。天平19年(747)の『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によると、この塔本塑像は和銅4年(711)に造立され、東面は維摩詰像土(ゆいまきつぞうど)、南面は弥勒仏(みろくぶつ)像土、西面は分舎利(ぶんしゃり)仏土、北面は涅槃(ねはん)像土であったことが知られる。この中の当初像はいずれも塑造ならではの柔軟で自在な造形が特色で、本像もその範疇にあるが、面相部や右膝部に若干損傷を被り、表情がもう一つ明確ではないのが残念である。
こうした侍者像は、安置像に大きな改変が認められる南面を除いた三面のいずれにも安置されており、さらに、現在の配置が造立当時とは変容している部分もあると考えられるため、本像が当初どの場面のどこに安置されていたかは定かでない。
(礪波恵昭)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.292, no.71.