紫色の料紙に金泥(きんでい)(金粉(きんぷん)を膠(にかわ)で溶いたもの)で経文を書写した写経。界線は銀泥(ぎんでい)で引いている。表紙と第一紙紙背(しはい)継目に東大寺印が捺(お)され、巻末に写経生(しゃきょうせい)による墨書が残る。表紙から軸まで、当初の姿を伝える(表紙の欠損部分は近年の修理により新補した)。
奈良時代、紫色の料紙に金字で経文を書写する例としては、国分寺経(こくぶんじきょう)が有名であるが、当時の官立の写経所(しゃきょうしょ)の記録からも、しばしばこの組み合わせで写経が行われたことが知られる。こうした写経は通常よりも費用や手間がかかり、本品も朝廷が管理する写経所で特別な目的のため書写されたものであろう。
(斎木涼子)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.250, no.52.
紫色の染め紙を継ぎ、界線(かいせん)を銀泥(ぎんでい)で引いて、経文を金泥で書写した『華厳経』の写本である。金字部分は書写の後、丁寧に磨かれており、1250年以上前のものとは思えない輝きを今も放つ。謹直な書体の経文だけではなく、表紙から軸までの装丁は、全体として非常に完成度が高く、平城の都の官営写経所(しゃきょうしょ)で製作されたものと考えられている。しかし、奥書等がないため書写の具体的な年代は不詳で、同じ紫紙金字(ししきんじ)の写経でも、諸国国分寺の塔に納められたことで著名な『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』(当館ほか蔵)に比べると、あまり認知度が高くないのは惜しまれる。
さて、本品の巻末の紙背には、写経時の校正に関わる2つの墨書がある。これまで、一つは「□校馬甘」、もう一つは「□道交了」と読まれていた。一つ目は問題ないが、二つ目は「□道主了」とも読めなくはない。もしこれが「道主」という人名であれば、本品の書写年代を特定する手掛かりとなる。一つ目の墨書にある「馬甘」と、「道主」という名の人物を当時の写経所関係の古文書から探すと、上馬甘(かみのうまかい)と下道主(しものみちぬし)が見出される。2人が同時に校正として活動していたのは天平20年(748)~天平勝宝3年(751)頃であり、その間に本品も製作された可能性が高いのではなかろうか。
(野尻忠)
奈良国立博物館だより第108号. 奈良国立博物館, 2019.1, p.8.
紫色に染めた楮紙(ちょし)に銀泥(ぎんでい)で界線(かいせん)を施し、経文(きょうもん)を金泥で書いた『華厳経』巻第七十の写本。奈良時代に官営の写経所(しゃきょうしょ)で書写された。文字の金泥は料紙の深い紫色に映え、その輝きは千二百年以上を経てなお褪せていない。
(野尻忠)
和紙 : 近代和紙の誕生. 奈良国立博物館, 2016.6, p.12.
奈良時代に多数の金字経が存在したことは正倉院文書などから知られるが、金字経の多くは紫紙に書写されていたようで、『金光明最勝王経』やこの『華厳経』のほか、『法華経』、『観無量寿経』、『弥勒経』などの例を記録に見ることができる。ただし、紫紙に銀墨で書写した例や、紺紙に金泥で書写した例もあるので、紫紙と金字が常にセットになっていたわけではない。しかし、平安時代にはおびただしい数の紺紙金字経が制作された反面、紫紙金字経がほとんど制作されなかったことを思えば、紫紙金字経は奈良時代に特徴的な装飾経であった。
本巻は、紫紙に銀泥できわめて細い界線を施し、金泥で経文を書写している。この『華厳経』は八十巻本である。表紙・軸付紙・軸ともに原装のままで、表紙と第一紙の継目裏には「東大寺印」が捺されている。軸付紙の紙背には写経生による墨書が残り、奈良時代中期の官立写経所で書写されたものと考えられる。
なお巻第六十一は大東急記念文庫、巻第六十二は藤田美術館、巻第六十三は国立歴史民俗博物館、巻第六十四は五島美術館、巻第六十五は個人が所蔵しており、いずれも重要文化財に指定されている。
(西山厚)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.301, no.106.

