『華厳経(けごんきょう)』の「入法界品(にゅうほっかいぼん)」に説かれた有名な善財童子(ぜんざいどうじ)の求法(ぐほう)の旅を描いたものである。裕福な家に生まれ、純真無垢に育った善財童子は、文殊菩薩に導かれ、五十五人(再会した文殊を重複して数える)の仏法に通じる善知識(ぜんちしき)を各地に訪ね、最後に普賢菩薩(ふげんぼさつ)のもとに至り、菩薩道を究めたとする説話である。本品は、善知識のうち、善財童子が不動優婆夷を訪ねた場面である。鴟尾をあげた屋根の建物内にいるのが、幼顔の残る美しい女性とされた不動優婆夷である。不動優婆夷は両親と自宅に住み、人々に仏法を説いており、塼(せん)(タイル)敷の床に置かれた礼盤(らいばん)に座す。基壇への階段の取り付く位置や鴟尾の位置、建物の平面形からすると、不動優婆夷は建物の妻側を正面として童子と面会している。本来の建物正面でなく妻側を正面とするのはどのような理由かは不明である。また、屋根は線で表現され、緑釉瓦(りょくゆうがわら)で表現していると考えられる。こうした財善童子歴参図は最初、奈良時代に日本に伝わり、平安時代には宋代版本がもたらされるが、本品には宋代版本の影響が殆ど見られず、古様を遺(のこ)している。なお、本品は元来、五十余面からなっていたと考えられ、今も東大寺に伝来している十面と一連のものである。
(岩戸晶子)
建築を表現する―弥生時代から平安時代まで―, 2008, p.38.
『華厳経』の入法界品には、すなおで心の豊かな少年であった善財童子が、文殊菩薩の説法を聞いて発心し、その指南によって法を求めるために次々に善知識に参じ、ついに普賢菩薩のもとで大きな悟りを得たという物語が語られる。善財童子歴参の場面はわが国奈良朝に知られていた華厳経変にすでに表されていたと想像される。本図はこれを参歴の場所の順に五十三幅(または再見文殊を含む五十四幅)に分けて描いたもの。もとは描表装のある掛幅装であった。この内二十面が現存し、東大寺には十面が、残りは根津美術館、藤田美術館、奈良国立博物館ほかに分蔵される。表現描写にはいくらかの振幅が感じられるが、一連の作品として矛盾はない。
わが国平安後期には壁画に描かれた歴参図の存在が推測される(『皇后宮建堂舎安仏像願文』)。また中国・北宋にも事例があり、わが国の入宋僧成尋は路州開元寺大仏殿で壁画の「善財知識」図を見、高麗国義天は杭州慧因寺の「善財童子参善知識五十四軸」を写し帰朝したと推測される。本図の成立も東アジア的な視野の中で見るべきと思われる。
図は、上部に墨書で善知識の尊名、住所、讚頌などを記入する。讚頌は六十華厳と八十華厳の双方によっていて一定しない。図様は、拓本や版画などによって知られる北宋末に新しく成立した図様にはよっておらず、おそらく中国古式の善財童子歴参図を継承するものと推測される。賦彩には平安中期仏画に見られる具色表現や色線・色隈の手法も散見され、画中の山水や野水、異形異類のモチーフも古様である。本図の保守的な画風は、多くのことを考えさせる。
なお室町時代には東大寺戒壇院三面僧房北室の中央五間(談義所・食堂)に懸用されたと推定される。
(梶谷亮治)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.314, no.162.