大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)では、現在八十軀(く)の彫像が重要文化財指定を受けており、そのうちの五十軀が着甲した天部形(てんぶぎょう)である。本像もかつてこの一群に属していた一軀とみられる。大将軍神は方位を司(つかさど)る陰陽道(おんみょうどう)の神であるが、仏教の天部像に影響を受けて造形化されたとみられ、踏み下げの姿勢は牛頭天王(ごずてんのう)像と共通し、これとの関連も指摘される。頭・体を前後に割(わ)り矧(は)いで内刳(うちぐり)を施し、両手と左右の脚部はそれぞれ別材を矧ぐ。動きが少なく温和な顔貌と細い体軀を示す本像の表現は、十二世紀の作風をよく示している。床几(しょうぎ)は後補。
(岩井共二)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2022, p.141, no.187.
かつて京都の大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)に伝来した像と見られる。大将軍神は方位を司(つかさど)る陰陽道(おんみょうどう)の神であるが、本像では仏教の天部に近い姿をとる。動きが少なく、温和な顔貌と細い体軀をもち、平安時代後期の特色を備える。
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京都・大将軍八神社の神像群とともに伝来したという神像で、右足を踏み下げて坐(すわ)る。瞋怒相(しんぬそう)で甲冑(かっちゅう)を着用した姿だが、平安後期彫刻らしい穏やかな表現が目立つ。今日大将軍八神社は祇園社(現・八坂神社)の祭神である牛頭天王(ごずてんのう)と同体の素戔嗚尊(すさのおのみこと)を主神とする。牛頭天王・大将軍神とも、恐ろしい疫神を慰撫して災厄を除くという信仰の対象だが、牛頭天王の彫像の中にも本像に似た着甲・踏み下げの作例があり、四天王など仏教の神将像の影響を受けて形成された、この種の神々の姿の系譜を考える上で興味深い。
(稲本泰生)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.114, no.148.
大将軍神像は陰陽道と結びついた方位(方伯(ほうはく))の神である。陰陽道(おんようどう)は古代中国で生まれ、陰陽五行説にもとづいて天文・暦教を司り、吉凶を占う学問である。日本では奈良時代に伝わった。平安時代後期から鎌倉時代にかけて隆盛し、大将軍神像が造られた。この神は東西南北の四方を正すことを司り、三年ごとに方位を改め、十二年で元の方位にもどされるとされた。この神がいる方角(方位)は三年塞(ふさ)がりと呼んで不吉な方位として避けられ、殿舎の造営や修理、宮中行事の入内や行幸などで災厄が起こらないように配慮されたのである。大将軍神の祭祀は特殊な祭儀と祭具を必要としたらしく、呪術的な性格を持つと推測されている。本像と同類の大将軍神像が数多く伝わった大将軍八神社は、平安遷都の際に王城鎮護のため都の四方に設けられたもののうち、西方分の一社にあたる。治承二年(一一七八)十一月の公家の日記(『山塊記』)には大将軍神を祭る祠堂が確認される。当社の神像群は総数七十九体で、すべてが男神像である。神社の目録では武装系五十体、束帯系二十八体、童子形一体に大別される(奈良博所蔵分は数えない)。注目されるのは武装形像で、忿怒(ふんぬ)相をあらわし、焔髪(えんばつ)、着甲を付ける。左手を腰脇で掌を外にして第二・三指を立て、右手は剣を執るものが多い。多くは檜材で造られるが、榧、桂、欅材の場合もあある。本像は檜の一木造。両手首より先が新補されている。
(鈴木喜博)
神仏習合-かみとほとけが織りなす信仰と美―, 2007, p.272
大将軍神は陰陽道(おんみょうどう)で東西南北の四方を司り、三年ごとに居を移すとされる方伯(ほうはく)の神で、大将軍神のいる方位は三年の間万事が塞がるとして忌まれた。大将軍神の信仰は平安時代より広く行われ、王城の鎮護として都の四方に置かれたとされる大将軍社をはじめとして各地で大将軍神像が造立されたが、その都の四方の大将軍社のうちの西方分にあたる京都上京区・大将軍八神社にも多数の作例が伝わっている。本像はこの大将軍八神社に伝来したとされる。同社の大将軍神像の像容には大別して、四天王や十二神将のように甲冑に身を固めた武装形のものと、巾子冠(こじかん)を頂き袍(ほう)を着け笏(しゃく)を持った俗形のものとがあるが、本作例は前者の一例である。床几(しょうぎ)の上に獣皮を敷き、その上に右足を踏み下げて坐る姿は、武装形ながらもおとなしく、12世紀の制作になるとみられる。一木造、彩色仕上げ。
(礪波恵昭)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.296, no.85.

