天平九年(七三七)頃の疱瘡(ほうそう)の流行と飢饉等の不安定な国内情勢、新羅関係の悪化などを背景に聖武天皇によって出された天平十三年(七四一)の国分寺造立の詔を受けて、国分寺(今光明四天王護国寺)とセットで国分尼寺(法華滅罪之寺)が各国ごとに建立され、国分尼寺には十人の尼が置かれた。その成立には聖武天皇だけでなく光明皇后が重要な役割を果たしたことは周知である。国分寺・尼寺の成立時期や規模などは政治・文化の地域差やその国の財政状況、国司の熱意などによって様々であったものの、国家として尼寺を統一的な形で全国に造営することは仏教史・女性史の観点からも特筆できる。
陸奥国分尼寺は現在の仙台市に位置し、最北に位置する国分尼寺である。国分寺の東七〇〇メートルにあり、金堂の基壇と礎石が現在も残る。本品は、この陸奥国分寺・尼寺の創建の際に製作・使用された軒瓦である。この国分尼寺で出土する瓦はそのほとんどが国分寺で出土するものと同じであり、国分尼寺の創建年代は国分寺造立の詔が出た天平十三年(七四一)以降、国分寺とそれほど時期が隔たらない頃と考えられている。瓦工房で両者の瓦が混同しないように、「尼寺」の刻印を押印した瓦も出土している。
天平二十一年(七四九)に陸奥国で初めての砂金発見を記念して造営された黄金山産金遺跡(こがねやまさんきんいせき)の円堂の屋根に用いられた同范瓦(同じ型で作られた瓦)や、多賀城の七六〇年代における大々的な改修時に使用された瓦を比較することで、国分寺・尼寺の創建は七五〇年代頃と考えられている。国分尼寺で用いられた軒瓦は単弁八葉蓮華文軒丸瓦と偏行唐草文軒平瓦であるが、どちらも畿内では約五十年以上前の白鳳時代に特有の文様である。このことは、平城宮から遠く離れた最北の国であるためか、最新のデザインを入手できずに前代の特徴を色濃く残す文様の瓦を使用せざるを得なかった状況下ではありながら、整備に二十年もの歳月がかかった全国の国分寺・尼寺のなかでも、陸奥国は比較的早い段階で国分寺・尼寺が整備されたことを示している。
(岩戸晶子)
女性と仏教―いのりとほほえみ―,奈良国立博物館.2003.4,p.216.
かくしゅだんぺん(みやぎけんむつこくぶんにじしゅつど) 各種断片(宮城県陸奥国分尼寺出土)
一括
瓦製
軒丸瓦:①残存径19.2 軒平瓦:①残存幅18.2 ②残存幅18.8
奈良時代 8世紀
- D034951
- D034951
- 2003/03/27
- 瓦当
- D034952
- 2003/03/27
- 瓦当
- D034954
- 2003/03/27
- 瓦当
もっと見る
| 収蔵品番号 | 841-18 |
|---|---|
| 部 門 | 考古 |
| 部門番号 | 考242 |
| 文 献 | 女性と仏教ーいのりとほほえみー, 奈良国立博物館, 2003.4, 263p. |

