光明皇后(こうみょうこうごう)が亡き父母(藤原不比等(ふじわらのふひと)・県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ))のため書写させた一切経(いっさいきょう)のうちの一巻。玄昉(げんぼう)が唐より請来(しょうらい)した経巻を主な底本(ていほん)とし、天平八年(七三六)に皇后宮職(こうごうぐうしき)の写経所(しゃきょうしょ)において本格的に書写が始まった。天平十二年、巻尾に光明皇后の願文(がんもん)が書き加えられることになり、その日付が五月一日であったため「五月一日経」と称される。『開元釈教録(かいげんしゃっきょうろく)』(唐で編纂された経典目録)に 基づく一切経を目指したが、途中で目録外経典や経典の注釈書等も含めた日本にある仏典を全て書写する方針に変更され、数回の中断を経て天平勝宝八歳(七五六)まで続いた。書写総数は六千五百から七千巻近くに及んだと推定される。
(斎木涼子)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.250, no.51.
光明皇后が亡き父母(藤原不比等、橘三千代)の冥福と聖武天皇の御代の安泰を願い、皇后宮職(光明皇后のための役所)の写経所で書写させた一切経、いわゆる「五月一日経」の内の一巻である。巻尾に光明皇后の天平十二年五月一日付けの願文があることから、その名がある。「五月一日経」の書写事業は、天平七年(七三五)に唐から帰国した玄坊(げんぼう)が持ち帰った五千余巻の経典を底本にして天平八年から始まった。この事業は、必要な底本を捜しながら二十年間にわたって続き、書写された総巻数は約七千巻に及んだと推定されている。この数は、当時のわが国に存在した仏典のほぼすべてと考えられる。「五月一日経」は、謹厳な校正作業と合わせ、質量ともにわが国を代表する一切経である。『阿闍世王経』は、父王を殺し母(韋提希夫人)を幽閉して王位についた阿闍世が、釈尊の感化を受けて仏教に帰依し、懺悔して救われるという物語を骨子とするもの。本巻は、写経生の呉原生人が天平十四年(七四二)に書写したことが正倉院文書から知られる。
(西山厚)
女性と仏教 いのりとほほえみ, 2003, p.215
光明皇后が亡き父母のために発願し書写させた一切経、いわゆる「五月一日経」の内の一巻。巻尾に光明皇后の天平12年5月1日付けの願文があるところから、その名がある。
「五月一日経」は、天平8年(736)から20年間にわたって官立の写経所で書写され、総巻数は約7000巻に及んだと推定されている。この数は、当時のわが国に存在した仏典のほぼすべてと考えられる。「五月一日経」は、謹厳な書体や厳格な校正作業と合せ、質量ともにわが国を代表する一切経であると言ってよい。
この『阿闍世王経』は、父王を殺し母を幽閉して王位についた阿闍世が、釈尊の感化を受けて仏教に帰依し、懺悔して救われるという物語を骨子とするもの。本巻は、写経生の呉原生人が天平14年(742)に書写したことが正倉院文書から知られる。なお『阿闍世王経』の上巻は正倉院聖語蔵に伝えられている。
(西山厚)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.300, no.102.

