光明皇后が亡き父母(藤原不比等、橘三千代)の冥福と聖武天皇の御代の安泰を願い、皇后宮職(光明皇后のための役所)の写経所で書写させた一切経、いわゆる「五月一日経」の内の一巻である。巻尾に光明皇后の天平十二年五月一日付けの願文があることから、その名がある。「五月一日経」の書写事業は、天平七年(七三五)に唐から帰国した玄坊(げんぼう)が持ち帰った五千余巻の経典を底本にして天平八年から始まった。この事業は、必要な底本を捜しながら二十年間にわたって続き、書写された総巻数は約七千巻に及んだと推定されている。この数は、当時のわが国に存在した仏典のほぼすべてと考えられる。「五月一日経」は、謹厳な校正作業と合わせ、質量ともにわが国を代表する一切経である。『阿闍世王経』は、父王を殺し母(韋提希夫人)を幽閉して王位についた阿闍世が、釈尊の感化を受けて仏教に帰依し、懺悔して救われるという物語を骨子とするもの。本巻は、写経生の呉原生人が天平十四年(七四二)に書写したことが正倉院文書から知られる。
(西山厚)
女性と仏教 いのりとほほえみ, 2003, p.215
光明皇后が亡き父母のために発願し書写させた一切経、いわゆる「五月一日経」の内の一巻。巻尾に光明皇后の天平12年5月1日付けの願文があるところから、その名がある。
「五月一日経」は、天平8年(736)から20年間にわたって官立の写経所で書写され、総巻数は約7000巻に及んだと推定されている。この数は、当時のわが国に存在した仏典のほぼすべてと考えられる。「五月一日経」は、謹厳な書体や厳格な校正作業と合せ、質量ともにわが国を代表する一切経であると言ってよい。
この『阿闍世王経』は、父王を殺し母を幽閉して王位についた阿闍世が、釈尊の感化を受けて仏教に帰依し、懺悔して救われるという物語を骨子とするもの。本巻は、写経生の呉原生人が天平14年(742)に書写したことが正倉院文書から知られる。なお『阿闍世王経』の上巻は正倉院聖語蔵に伝えられている。
(西山厚)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.300, no.102.