春日本社第一殿の祭神武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、鎮座地の常陸国鹿島(ひたちのくにかしま)を発(た)ち、転々とした後、春日の地に到ったという、春日社の草創に関わる伝説に基く礼拝画を、「鹿島立神影図(かしまだちしんえいず)」と称する。この説話は、春日大社に蔵される『古社記(こしゃき)』中の通称「時風置文」に見られ、それが文暦元年(一二三四)十月の具注暦(ぐちゅうれき)の紙背(しはい)に記されていることが、説話の成立時期を示すかとする見解がある。一方で、延慶二年(一三〇九)編の『春日権現験記(かすがごんげんげんき)』に、藤原基通(ふじわらのもとみち)(一一六〇~一二三三)が夢で感得したと伝える「垂迹(すいじゃく)の御躰の曼陀羅(まんだら)」とは、この種の図を指すのではないかと思われることも考え合わせると、おそらくこの図の形式は鎌倉時代初期に成立したのであろうと推察される。本品には下半部に、飛雲上の白鹿に鞍を着けて騎乗する貴人の姿の武甕槌命と、常陸から付き従って春日の社司の祖となった、老相の中臣時風(なかとみのときふう)と若相の中臣秀行(ひでつら)を描いている。その背後に、同様の形でもう一体の神を描くのは、「鹿島立神影図」の遺品のうち本品以外に例のない要素で、典拠が見あたらないため明確ではないが、もとは同じく東国の下総国香取(しもうさのくにかとり)に鎮座していた本社第二殿の祭神経津主命(ふつぬしのみこと)かとされている。上端の御蓋山(みかさやま)および春日山は、まず御蓋山上に降り立ったことを示し、その下の榊(さかき)に鏡を付けた神木は、のち山下の社殿に移すとき榊に依(よ)らしめたことを示し、説話の一部の時間的な流れを含んだ表現となっている。
(中島博)
おん祭と春日信仰の美術. 奈良国立博物館, 2006, p.17, no.3.
図様の大概は春日大社の永徳本と共通するが、相違点としては、武甕槌命の乗る鹿の足下に飛雲があること、神鏡の面に本地仏像が表されないこと、そして武甕槌命の後にもう一体、同形式で神像が描かれていることなどが挙げられる。もう一体の像は、雲の描写において、下描きのまま彩色に到らなかった箇所や、白く彩色した後に霞の青い彩色により塗り消した箇所のように、工夫しながら作画した跡が認められることから、この図を制作する際に新しく付加された要素と判断される。典拠は見出されないものの、武甕槌命と同じく東国から移座してきた、経津主命を表すかと思われる。図中に九個の短冊形が認められ、その大半は諸色の彩色のみ残りの文字がほとんど剥落しているが、そのうちかろうじて残存する金泥(きんでい)書きの「若我(誓願)…中」「一人不成二世願」「不(還)…」等の文字は、当社の『古社記』に、武甕槌命が移座の際に中臣時風・秀行と分けて誦したとされる語句で、他種の春日曼荼羅にも賛文として記されることのある、「若我誓願大悲中 一人不成二世願 我堕虚妄罪過中 不還本覚捨大悲」を短冊形四個に一句ずつ記したものとみなされる。
(中島博)
大和の神々と美術 舞楽面と馬具を中心に, 1999, p.9
春日社の縁起によれば、神護景雲2年(768)、本社第一殿の祭神武甕槌神(たけみがづちのかみ)は、もとの鎮坐地である常陸の鹿島(かしま)から白鹿に乗って飛来し、御蓋山(みかさやま)の頂に降り、追ってそれぞれ他所からこの地に来た三神と共に山麓に建てられた御殿に祀られたのが神社の創まりという。図の下部に描かれたのが、武甕槌神とそれに従って来て社司の祖となった中臣時風・秀行である。その上にもう一体、同様に乗鹿の像があるのは、この種の図に異例であるが、本社第二殿の経津主神(ふつぬしのかみ)が下総の香取(かとり)から移座したことを、第一殿の場合にならって同形で付加したかと思われる。上端部の御蓋山と、その下の鏡をとり付け垂(しで)をたらした榊(さかき)は、縁起に、山上から麓へは時風・秀行の抱える榊に乗って移ったとされ、また後代には榊を神体とせよとのお告げも記されているのに基いている。鏡を付けた榊は実際に春日社で神木として用いられ、五本の垂は、多少縁起を逸脱し、本社四殿に、後世新たに祀られた若宮を加えた五神に相当すると思われる。縁起を題材としながら、凝縮的な構図によって礼拝画とした、特色ある図である。
(中島博)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.320, no.181.