広目天像(興福寺蔵)、増長天像(奈良国立博物館蔵)とともに興福寺に伝来した四天王像の一体。吹き返しのある兜(かぶと)をかぶった頭部は重量感に富み、別材製の黒目が忿怒相(ふんぬそう)に精彩を与えている。本格的な彫刻作品と称するに足る神将像であり、かたく張りつめた曲面で造形された甲冑(かっちゅう)を通して、充実した体軀の存在感が伝わってくる。腰を大きく右にひねり、右手で宝塔を高々と捧げる体勢は、平安時代後期に流行した多聞天像の一形式(東大寺像など)だが、周囲の空間を大きく取り込んだ本像の動きは、特にダイナミックな印象を与える。
(稲本泰生)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.108, no.141.
もと興福寺北円堂伝来といわれる四天王像のうちの北方天であるが、実際上の原所在は不詳。他の三体も現存する(増長天の項参照)。兜を被った頭部は首を左方に傾け、眉根を寄せ、瞋目、開口する。厳しい視線は、右手を高く挙げて、掌に載せた宝塔に向けている。左手は下げて宝棒を執り、腰を右に捻り、右足は邪鬼の頭部を押さえ、左足は外に開き気味にして、邪鬼の尻を踏まえて立つ。瞋怒の目鼻立ちは生彩で、首が短く、太造りの体形をあらわすが、動きは若干控えめであり、充実した肉取りの表現とともに平安前期の一木彫を思わせる重厚さが感じられる。構造技法は、体部を檜の一材から彫り、内刳りを施し、背面に背板を矧ぎ付けており、頭部は別材製として首部で体部と分かれる。瞳は別材を貼り付け、彩色仕上げとし、腰甲の小札は漆箔とする。これらの特徴は、一具であった増長天像とも共通しており、ともに平安後期の奈良仏師の手になるものと推測される。等身大の堂々たる、かつ充実した本像の表現は、増長天の項でも述べたように、平安後期から鎌倉初期にかかる南都の四天王像の一系譜を形成するものである。
(鈴木喜博)
この像は、奈良国立博物館保管の増長天像、興福寺に残る広目天像、現在は広島・耕三寺にある持国天像とともに一具の四天王像を構成していた。
構造は多少の違いがあるものの、共にヒノキ材で頭体部を別材製とし、頭部は一材から、体幹部も大略一材と背板材から木取りして大きく内刳り、瞳や甲の飾り等の細部を別製貼付とする。
面相はともに肉の隆起を強調して迫力があり、大きなポーズをとる多聞天像のみならず増長天像の体にも、胸から腹そして下半身へと、各部に量感がありかつ締まった肉付けを施し、そのねじれる様などをも表して、全体として活動的なものとなっている。また、甲や衣の表現も、よくその質感を表している。この様な点からすれば、制作期は鎌倉時代初期と判断されよう。
多聞天像の細部に注目しておくと、宝塔を挙げる右手の指は第四・五指をまげ、振り下ろす左手の指では第二指を伸ばしている。宝塔を高く持ち上げるタイプの毘沙門天像のうちでは、12世紀前半の法隆寺三経院の多聞像まで遡ることができ、本像は少なくとも平安後期からの伝統の上で作られたものであることが分かる。
尚、この四天王像一具の伝来に関しては、運慶一派の造像による興福寺北円堂のものであったとする考えがあるが、北円堂の無着・世親像などとの作風比較を踏まえて慎重に決めなければならない。
(井上一稔)
奈良国立博物館名品図録 増補版. 奈良国立博物館, 1993, pp.26-27, no.14.