かつて多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)と呼ばれた奈良・談山神社(たんざんじんじゃ)の祭神・藤原鎌足が朝服を着け半跏して坐る姿を中央にひときわ大きく配し、向かって右下に僧形の定慧、左下に朝服を着ける藤原不比等という二人の子息が従う。三人は上畳(あげだたみ)上の牀座(しょうざ)に坐る姿に描かれており、背後を三面の神鏡、巻き上げられた御簾(みす)、藤の円文をあしらう赤い帳(とばり)、藤が絡みつく松を描いた衝立(ついたて)などで荘厳することで、神格化された藤原氏の祖としての鎌足の存在を強調している。様々なヴァリエーションが知られる鎌足の肖像にあって、こうした形式は最も典型的であることから通称「多武峰曼荼羅(とうのみねまんだら)」とも呼ばれる。さらに本品の場合、画面上部に藤原氏とゆかりの深い春日社の本地仏を表す五つの円相を配すとともに、談山神社十三重塔の建立説話が描かれる。すなわち『多武峰縁起』によれば、遣唐使の一員として入唐を遂げた鎌足の長子・定慧は、文殊の聖地として有名な五台山に立つ宝池院の十三重塔を多武峰の地に移すことを決意し、材木・瓦などを整えたが、船が手狭だったために一重分を残したまま帰朝した。その後、定慧は摂津国阿威山(あいやま)に葬られていた鎌足の遺骸を多武峰の地に改装して、その墳墓の上に塔を建てようとしたが、材が足りずに十二重となってしまい嘆息していたところ、夜半に雷電霹靂大雨大風の後に忽然と十三重目が飛来し、塔が完成したというのである。実際、定慧は学問僧として白雉四年(六五三)に吉士長丹(きしのながに)を大使とする第二回目の遣唐使に従って入唐を遂げたことが『日本書紀』に見えており、長安の僧慧日の道場に住み、僧神泰に学んで内経外典に通じたといい、天智四年(六六五)に百済経由で帰朝したことが知られる。定慧がもたらした最新の唐仏教の知識が、多武峰妙楽寺の創建に際して大いに生かされたに違いない。
(谷口耕生)
平城遷都一三〇〇年記念 大遣唐使展, 2010, p.315

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- 全図

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- 鎌足,不比等,慧慈部分(中から下)

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- 鎌足上半身(中央)

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- 全図

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- 全図

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- 人物部分

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- 人物部分

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- 本地仏等

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- 本地仏等
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収蔵品番号 | 693-0 |
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部 門 | 絵画 |
部門番号 | 絵144 |
文 献 |