画面上部に御蓋山(みかさやま)と春日山および日輪を描いて春日の風景を示し、その下には毘沙門天(びしゃもんてん)と脇侍(吉祥天・善膩師童子)を描く。画面下端には鳥居がみえ、これに藤が絡むことから中ほどに描かれた毘沙門天は春日大社の神域内に在ることを示唆(しさ)している。
毘沙門天は岩座に左足を垂下して坐(ざ)し、左下を向く。右手に宝棒を執り、左手に宝塔を載せる。着兜形で腹前に獅噛(しがみ)を表す。岩座の下に毘沙門天の使者とされるムカデが描かれる。
鎌倉時代の成立とされる『古社記断簡(こしゃきだんかん)』「春日御正躰事」によれば、毘沙門天は春日大社廻廊(かいろう)内の南西隅に鎮座する榎本社(えのもとしゃ)の本地仏(ほんじぶつ)にあたる。この「春日御正躰事」に著(しる)される諸尊の図像は、奈良・宝山寺や東京・静嘉堂文庫美術館などの春日本迹曼荼羅(かすがほんじゃくまんだら)や、静岡・MOA美術館の春日宮曼荼羅(かすがみやまんだら)にもみられる。ただし、本品の毘沙門天はこれらとは別系の図像である。毘沙門天信仰を示す本地仏曼荼羅の数少ない一例として貴重である。
(原瑛莉子)
おん祭と春日信仰の美術. 奈良国立博物館, 2011, p.68, no.52.
図は、上方に春日山と御蓋山を描き、これが春日曼荼羅であることを明確に示している。その下方に岩座に坐す毘沙門天像を表し、その脇侍として吉祥天と善膩子童子(ぜんにしどうじ)を配している。脇侍の間には、一匹の百足(むかで)を描く。下方には藤花のからんだ藤(ふじ)の鳥居(とりい)を配している。すなわちこの毘沙門天は春日社の神域に坐しているのである。毘沙門天は、鎌倉時代にはすでに春日社の地主神(じしゅしん)である榎本社(えのもとしゃ)(楼門中の西回廊内に南面して祀られる)の本地仏であるとされたことが知られており、本図は榎本社の貴重な本地仏曼荼羅ということになる。なお、図中に配された百足は、毘沙門天の使者と解釈される。春日神の神威と毘沙門天信仰の功徳を重ねた、室町時代の春日信仰の一端を語る作例である。
(梶谷亮治)
春日信仰の美術, 1997, p.30-31