臨済宗聖一派の禅僧で、東福寺や南禅寺の住持を務めた大道一以(だいどういちい)(一二九二〜一三七〇)の頂相(ちんそう)(肖像画)。図は、松樹下の岩上に左足を踏み下げて半跏(はんか)し、右手に竹篦(しっぺい)(禅宗で師が弟子の指導に用いる竹製の杖)をとる大道を描く。東福寺退耕庵の性海霊見(しょうかいれいけん)の賛文により、大道に鹿と鵠(こう)(白鳥)が馴れ親しんだという逸話を描いたものと知られる。『性海霊見遺稿』によると、本図と同図様と思われる東福寺の画僧・明兆(みんちょう)(一三五二〜一四三一)が描いた大道像が複数存在したことが判明し、本図も明兆の作である可能性が高い。
(谷口耕生)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.274, no.198.
大道一以(一二九二~一三七〇)は、臨済宗聖一派の人。出雲に生まれ、建長寺の約翁徳倹、南禅寺の規庵祖円、一山一寧、東福寺の南山士雲、乾峰士雲などに歴参したのち、蔵山順空の法を嗣ぎ、東福寺永明院に住した。のち東福寺、南禅寺に住したが、晩年淡路に隠棲した。図上部には、東福寺退耕庵の性海霊見(一三一五~一三九六)が、明徳五年(一三九四)に、淡路の細川満春の求めにより着賛している。『性海霊見遺稿』によると、本図を髣髴とさせる明兆画の大道像が複数存在したことが確実である。明兆(一三五二~一四三一)は、淡路の出身で大同一以の弟子。五百羅漢図をはじめ多作の画僧としての活躍は周知である。図は、松樹下の岩上に左足をおろして半跏する大道和尚を描く。右手には竹製の長い柱杖をとる。下方に鹿と白鵠が配されるのは、山中羅漢図に見立てたためであろう。面相には濃淡墨を使い分け、外隈を施してやわらかい表情を作り、鹿には墨暈をまじえた軽快な筆致が見られる。明兆壮年の作品である。
画賛「石頭大小金剛座 天地之間唯一身 世縁世情都不管 明鹿明鵠自相馴 大道和尚真儀 淡州太守明地居士請 明徳甲戌孟夏下澣 退耕杜多年八十」
(梶谷亮治)
聖と隠者―山水に心を澄ます人々―, 1999, p.208
大道一以(1292~1370)は、臨済宗聖一派の人。出雲に生まれ、建長寺の約翁徳倹(やくおうとっけん)、南禅寺の規庵祖円(きあんそえん)、一山一寧(いっさんいちねい)、東福寺の南山士雲(なんざんしうん)、乾峰士曇(けんぽうしどん)などに歴参したのち、蔵山順空(ぞうざんじゅんくう)の法を嗣ぎ、東福寺永明院に住した。また淡路の太守細川師氏に招かれて安国寺を開いた。その後上洛して東福寺(二十八世)、南禅寺(三十二世)に住したが、晩年淡路に帰る。
図上部には、東福寺退耕庵の性海霊見(しょうかいりょうけん)(1315~1396)が、明徳5年(1394)に、淡路の細川満春の求めにより着賛している。『性海霊見遺稿』には「大道和尚賛 坐石上上有松木蘿挂之左右鹿鵠兆殿司筆」とある画賛が数首収録されている。本図の賛と一致するものはないが、本図を髣髴とさせる明兆画の大道像が複数存在したことは間違いない。
明兆(1352~1431)は、淡路の出身で大道一以の弟子。その諱である吉山は大道から得ている。五百羅漢図をはじめ多作の画僧としての活躍は周知だが、こうした水墨画の頂相にはほかに東福寺の聖一国師岩上像がある。図は、通例の頂相の椅子に坐す姿には表さず、松樹下の岩上に左足をおろして半跏する大道和尚を描く。右手には竹製の長い挂杖をとる。下方に鹿と白鵠が配されるのは、山中羅漢図に見立てたためであろう。面相には濃淡墨を使い分け、外隈を施してやわらかい表情を作り、鹿には墨暈をまじえた軽快な筆致が見られる。小品ながら明兆壮年の印象深い作品である。
(梶谷亮治)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.319, no.177.