わが国に伝わる古代の繡仏で、もっとも大きく、かつ完成度の高い作品である。中央に赤い袈裟(けさ)をまとい、座に腰かける釈迦如来を表す。釈迦の後ろには後屛(こうびょう)があり、頭上には天蓋と樹木がある。釈迦を十四人の菩薩と十人の僧侶、供養者たちが囲繞(いにょう)し、正面には一人の女性が釈迦と向き合う。釈迦の上方左右に楽器を奏でる飛天がおり、上空には鳳凰に乗る仙人を表している。主題は諸説あるが、釈迦に対面する女性を摩耶夫人(まやぶにん)に当て、夫人が往生した忉利天(とうりてん)において釈迦が説法する場面とする説などがある。
刺繡の技法は鎖繡(くさりぬい)を主に、釈迦の螺髪(らほつ)や菩薩の宝冠などに糸に団子結びを作る相良繡(さがらぬい)を用いる。刺繡の運針の方向を仏菩薩の身体の起伏や形に合わせることで、頬の丸みや身体の隆起を表現している。仏菩薩の顔には細い糸を用い、針足は一センチメートルで八回ほどであるのに対し、背景の地文様などでは太い糸を用い、針足は一センチメートルで四、五回程度である。図様に応じて刺繡の密度を変えていることがわかる。また、光背などではグラデーションが見られるが、これは糸にほかの色糸の繊維を少しずつ配合することで、微妙に色が違う糸を複数本用意して表現している。
本作の図様が法隆寺金堂壁画、特に第六号壁に近似していることは既に指摘されている。たとえば、向かって左の菩薩が六号壁の菩薩像と顔の表情や宝冠の形などが近似し、また釈迦如来の右手は六号壁の観音の右手と同じ図様に則っていると推測されている。金堂壁画の製作は法隆寺再建期である七世紀末から八世紀初頭と考えられているが、本繡仏の製作年代は、これまで奈良時代(八世紀)もしくは中国・唐とされてきた。しかし、金堂壁画との近似性を考えれば本繡仏が飛鳥時代後期(白鳳期、七世紀後半~八世紀初頭)に遡る可能性も十分にあり得るだろう。しかも、本品と同様に鎖繡を用いた刺繡獅子連珠円文残欠(ししゅうししれんじゅえんもんざんけつ)(大阪・叡福寺)、及び刺繡連珠円文残欠(ししゅうれんじゅえんもんざんけつ)(東京国立博物館)が、法隆寺再建期の意匠を備えることから製作が白鳳期と考えられることも傍証となろう。また、完成度の高い刺繡技法が見られることにより本品を中国・唐からの将来品と見なす説がある。古代のわが国において繡仏が盛んに造立されたことは本図録の総論で指摘したとおりであり、当時のわが国の刺繡技法が未熟であったと考える必要はなかろう。
(内藤栄)
修理完成記念特別展 糸のみほとけ―国宝 綴織當麻曼荼羅と繡仏―. 奈良国立博物館, 2018, pp.259-260, no.41.
釈尊(しゃくそん)の説法する有様を刺繍(ししゅう)で表した図。京都山科の勧修寺(かしゅうじ)に伝わったことから「勧修寺繍帳」の名でも知られる。中央にインド起源という、いわゆるグプタ式背障(はいしょう)を有する宝座に倚座(いざ)する釈尊を大きく表し、釈尊と向かい合う位置に唐装の貴人女性を、これに囲繞(いにょう)するように瑞鳥に乗る六神仙や十二奏楽天人、十四菩薩、十比丘、十二人の俗人供養者を配する。釈尊は朱衣を偏袒右肩(へんたんうけん)にまとい、左手は腹前で仰掌(ぎょうしょう)し、右手は屈臂(くっぴ)をして胸前で第一指と第二指を捻ずる。頭上には天蓋(てんがい)が懸かり、樹下で説法する様子を示している。刺繍は、鎖繍い(チェーン・ステッチ)と相良(さがら)繍い(生地の下から上に引き抜いた糸で結び玉を作り、その玉を重ねて文様を表す技法)を駆使して薄黄色を呈する平絹(へいけん)に施されており、堅く撚(よ)った糸で間地に至るまで全面が縫い尽くされている。糸色は青・緑・紫・赤・黄・茶・白・黒など数種を濃淡に染め分けて用い、千年以上の時を経た染織品とはとても思えぬ鮮やかさを誇る。遠目に刺繍であることを忘れさせるかのような周密な繍技や色糸を駆使しグラデーションを巧みに表した表現は高度で、古代刺繍の極北に位置付けられよう。製作地については様々な議論があるが、螺発(らほつ)や獅子の台框、菩薩の宝冠・装身具などを除いて広範囲に用いられる鎖縫いは、中国で漢代から唐代にかけて多用された技法で、我が国では奈良時代の正倉院宝物などにみられる程度であること、また相良縫いは我が国で製作された遺例がないこと、総繍が施されていることなどから、唐で作られたものが遣唐使を通じて我が国にもたらされたとする説が有力である。なお、法隆寺金堂壁画六号壁と本品とが、如来の背障、天蓋、脇侍菩薩の頭部などの点で非常に親近することが従来指摘されており、金堂壁画製作に当たり手本とされたとする見解も示されている。主題をめぐってはかつて釈迦霊鷲山説法図(しゃかりょうじゅせんせっぽうず)とする説が有力であったが、近年弥勒仏あるいは優塡王像(うてんのうぞう)(優塡王が造らせた釈迦像)供養図とする説、釈迦忉利(とうり)天説法図とする説が示されている。ことに釈迦と向かい合う女性を母である摩耶夫人(まやぶにん)とみ、釈迦忉利天説法図と解釈する後者の説は、父母への「考」を重視する当時の唐の思潮を踏まえると俄然注目される。
(清水健)
平城遷都一三〇〇年記念 大遣唐使展, 2010, p.317
奈良・中宮寺の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)とともに、わが国上代刺繍の双壁をなす。奈良時代の寺院の縁起類が伝えるように、この時代には高さ2丈や3丈の繍仏の大作が作られ堂宇に奉懸されたが、本品は往時を知る貴重な遺品である。図様は宝樹・天蓋の下に獅子座に倚坐(いざ)した赤衣偏袒右肩(へんたんうけん)の説法相の釈迦如来を中心に、上部に鳳凰にのる六仙人や雲上の十二奏楽天人を左右対称に配し、中辺から下部にかけて十四菩薩、十比丘(びく)、十二供養者が囲繞する。下部中央のガラス器に浮かした供養花を捧げる貴女を吉祥天にあてる説もある。下地は厚手の平絹を用い、繍法は紅・緑・紫・黄・藍などのそれぞれ濃淡色、黄土、白など十数色の撚り糸を用いて、相良繍(さがらぬい)(糸に結び玉を作る法)と鎖繍(くさりぬい)(1本の針に2本の糸を通し、第1刺の糸の間に第2刺を入れて鎖状に縫い進む法)の二法が用いられている。相良繍は螺髪(らほつ)、獅子座框(かまち)や後屏の宝飾文様、菩薩・天人の宝冠、装身具、宝瓶などに用いられ、そのほかは鎖繍とする。図様と配色は複雑の妙をきわめ、図様の粗密、量感、質感など筆意の違いに応じて繍糸の太さを変え、また暈繝(うんげん)をまじえつつ多くの色糸を使いこなす技術と感覚は高く洗練されている。もと、京都・勧修寺(かじゅうじ)に伝えられ、世に「勧修寺繍帳」の名でも呼ばれる。
(内藤栄)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, pp.283-284, no.26.