東大寺戒壇院(とうだいじかいだんいん)に伝来した厨子(ずし)の扉絵(とびらえ)を写す白描図像(はくびょうずぞう)。奏楽(そうがく)・供養菩薩(くようぼさつ)を二尊ずつ描く八図と、梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)・四天王(してんのう)・二王(におう)の八図をあわせた合計十六図からなる。同厨子は唐僧・鑑真(がんじん)の来朝を契機として天平勝宝七年(七五五)に創建された東大寺戒壇院に安置されたもので、本品は治承四年(一一八〇)の兵火で焼失した厨子扉絵原本の姿を伝える貴重な絵画資料となっている。梵天・帝釈天・四天王の六尊は、平安後期成立の東大寺蔵倶舎曼荼羅(くしゃまんだら)の六尊と図像・寸法がほぼ一致し、両者の制作に密接な関連が予想される。京都・高山寺旧蔵。
(谷口耕生)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.275, no.207.
奏楽供養菩薩(そうがくくようぼさつ)・梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)・四天王(してんのう)・金剛力士(こんごうりきし)の合計十六図からなる白描図像(はくびょうずぞう)。表紙の外題(げだい)、紙背の端裏書(はしうらがき)、巻末の識語から、東大寺戒壇院にかつて伝来した厨子の扉絵を写したものと知られる。この厨子は唐僧・鑑真(がんじん)の来朝を契機に建立された東大寺戒壇院に天平勝宝七歳(七五五)九月頃に安置されたが、治承四年(一一八〇)の兵火で焼失してしまったため、本図像は失われた厨子扉絵の様相を伝える極めて貴重な絵画資料となっている。例えば、樹下に人物を配する画面構成、樹木や岩の形態・皴法(しゅんぽう)などが正倉院宝物の鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)に近似するなど、総じて鑑真将来図像の影響を受けたと見られる扉絵原本の姿を忠実に写していることが分かる。また、焚天・帝釈天・四天王の六尊の図像については、十二世紀半ばの成立と考えられる東大寺所蔵倶舎曼荼羅(くしゃまんだら)に描かれる六尊と像容や寸法がほぼ同一であり、本品の成立が同曼荼羅の制作と密接に関わるものだった可能性がある。
こうした東大寺戒壇院扉絵の図像を忠実に踏襲した快慶周辺における造像として注目されるのが京都・金剛院所蔵金剛力士立像である。このうち阿形(あぎょう)像は右掌(たなごころ)上に金剛杵(こんごうしょ)を立てて振り上げた左手の掌を開き、吽形像は右手を振り上げて左掌を外に向けており、その姿形や着衣形式、衣文の処理など細部に至るまで本品巻末所収の金剛力士図像二図に一致することは一目瞭然である。権威ある図像の彫像化を数多く行った快慶の特色がよく表れた事例といえるだろう。
(谷口耕生)
快慶 日本人を魅了した仏のかたち. 奈良国立博物館, 2017.4, pp.221-222, no.12.
楽器を奏であるいは花籠(けこ)を捧げ持つ供養菩薩を二尊ずつ描く八図と、梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)・四天王(してんのう)・二王の八図をあわせた、合計十六図からなる白描図像。表紙の外題、紙背の端裏書、巻末の識語から、東大寺戒壇院にかつて伝来した厨子の扉絵を写した白描図像と知られる。同厨子は、三部の八十巻本『華厳経』を納入するために製作され、唐僧・鑑真(がんじん)(六八八~七六三)の来朝を契機に建立された東大寺戒壇院に、天平勝宝七歳(七五五)九月頃に安置されたもの。ちょうどこの時期に「戒壇堂」および「厨子所」での活動が確認できる造東大寺司所属の画工・上楯万呂(かみのたてまろ)が、扉絵の制作に従事した可能性が高い。この厨子は治承四年(一一八〇)の兵火で焼失してしまったため、本品は失われた扉絵の様相を伝える極めて貴重な絵画資料となっている。樹下に人物を配する画面構成、樹木や岩の形態・皺法(しゅんぽう)などが正倉院宝物の鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)や漆物龕扉(うるしぶつがんとびら)に描かれるものに近く、供養菩薩の背後に描かれる宝相華が、天平宝字二年(七五八)に始まる東大寺大仏殿の堂内彩色に用いられた可能性がある造花様(ぞうかよう)(正倉院文書所収)と細部まで表現が一致するなど、総じて本品は鑑真請来図様の影響を受けたと見られる扉絵原本の姿を忠実に写していることが分かる。ところで、本品に描かれる梵天・帝釈天・四天王の六尊の図像については、平安時代後期成立と考えられる東大寺所蔵の倶舎曼荼羅(くしゃまんだら)170に描かれる六尊と像容がほぼ同一で、両者の法量もほぼ寸分違わず一致する。さらに本品においてこの六尊の図像のみに付される色注も、倶舎曼荼羅中の各尊の彩色とほぼ一致することから、両者がともに失われた原本を忠実に伝える極めて近しい関係にあることをうかがわせる。なお巻頭部分に捺される「高山寺」の朱印や、表紙や紙背に記される「真第十一」の墨書から、建長三年(一二五一)に編纂された『高山寺経蔵聖教内真言書目録』に「真第十一」と分類される聖教類のうち「東大寺戒壇院扉繪圖一巻」が本品に相当するとみられる。
(谷口耕生)
平城遷都一三〇〇年記念 大遣唐使展, 2010, p.331-332
楽器を奏であるいは花籠を捧げ持つ供養菩薩八尊と、梵天・帝釈天・四天王・二王を描く白描図像。外題や端裏書から東大寺戒壇院にかつて安置されていた厨子の扉絵を写したと推定される。同厨子は東大寺戒壇院に天平勝宝7年(755)に安置されたものであるが、治承4年(1180)の兵火で焼失してしまったため、それ以前に写されたと考えられる本品は、失われた奈良時代の扉絵の様相を伝える極めて貴重な絵画資料となっている。かつて京都・高山寺に伝来し、建長3年(1251)に編纂された『高山寺経蔵聖教内真言書目録』にも記載される。なお、本品に描かれる梵天・帝釈天・四天王の六尊の図像については、平安時代後期成立と考えられる倶舎曼荼羅(東大寺蔵)中に描かれる六尊と像容・法量がほぼ一致する。さらにこの六尊の図像のみに付される色注も、倶舍曼荼羅中の六尊の彩色とほぼ一致することから、両者がともに、失われた原本の姿を忠実に伝える極めて近しい関係にあることをうかがわせる。