京都・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の宝塔院(ほうとういん)(琴塔(こととう))に伝来。胸の高さで右肘を張る颯爽(さっそう)とした姿勢は文治二年(一一八六)運慶(うんけい)作の静岡・願成就院(がんじょうじゅいん)毘沙門天像を想起させる。兜の錣(しころ)を別材で造り、これを鎖で吊っている。
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像が納められていた旧厨子扉(ずしとびら)の墨書(ぼくしょ)により、京都・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)にかつて存し、明治時代の神仏分離で解体された宝塔院(琴塔(こととう))に安置されていたことがわかる。力強く明快な彫技は慶派(けいは)仏師の作風と類似し、右手を胸の高さに上げて肘を張る姿勢は文治二年(一一八六)運慶(うんけい)作の静岡・願成就院(がんじょうじゅいん)毘沙門天像を想起させる。表面には彩色(さいしき)により雲龍(うんりゅう)や鳳凰(ほうおう)といった具象的なモチーフが描かれ、一部に截金(きりかね)を置くほかは金泥(きんでい)を多く用いる。兜(かぶと)の錣(しころ)は別材で造り、これを鎖(くさり)で吊る。金銅(こんどう)製の火焔光背(かえんこうはい)に当初のものを伝える点も貴重。
(内藤航)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2022, p.132, no.176.
京都府八幡市の男山(おとこやま)山上に鎮座(ちんざ)する石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の境内に明治初年まで存した多宝塔(たほうとう)は、初層の軒先に風鐸(ふうたく)ではなく琴を下げたために琴塔(こととう)と呼ばれた。本像はその初層北側に安置されていたことが、像とともに伝来した旧厨子(ずし)扉に記された墨書によって知られる。石清水八幡宮に伝存する古文書にも、琴塔初層北向きに毘沙門天像が安置されることが見える。
右肘を強く張ったポーズに特色があり、鎌倉時代初頭の著名な仏師運慶が造った、静岡・願成就院(がんじょうじゅいん)の毘沙門天立像を想起させる。また彩色については、金泥塗(きんでいぬ)りを多用することや、截金は補助的な使用にとどまること、文様は幾何学文よりも雲龍(うんりゅう)・鳳風(ほうおう)・花葉などの具象的なモチーフが主となることが特徴である。
面部を見ると、比較的単純な曲面構成が、男性的で烈しい忿怒(ふんぬ)の相の表出に寄与している。足下の邪鬼(じゃき)も当初のもので、玉眼(ぎょくがん)を嵌入(かんにゅう)した面相には一種の生々しさがあり、姿勢には苦悶が満ちる。冑(かぶと)の錣(しころ)は別製として鎖で吊っている。金銅製の光背に付く火焔(かえん)の表現も生彩に富む。鎌倉時代半ば頃の慶派仏師の作と推測される。
(岩田茂樹)
毘沙門天-北方鎮護のカミー. 奈良国立博物館, 2020.2, p.159, no.20.
像とともに伝わった旧厨子扉(ずしとびら)の墨書により、京都・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の宝塔院(別名琴塔(こととう))内に安置されていた像と知られる。同院は明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のおりに社外に売却された。右肘を強く張ったポーズは運慶作の静岡・願成就院(がんじょうじゅいん)の毘沙門天像を想起させ、力強い作風からも慶派の流れをくむ仏師の作と考えられる。彩色については、金泥彩(きんでいさい)を多用することや、截金(きりかね)は補助的にのみ用いること、文様のモチーフは幾何学文よりも雲龍・鳳凰・花葉など具象的なものが多いことが特徴である。兜(かぶと)の錣(しころ)は別材製のものを鎖で吊っている。
(岩田茂樹)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.109, no.142.






























