画面上部に春日社の景観、下部に興福寺主要諸堂のさまを組み合わせて描く春日社寺曼荼羅(かすがしゃじまんだら)。寺社それぞれの正面観を重視するために、本図を含めて多くの場合、春日社部分は東方、興福寺部分は北方を画面の上方にあてる。そのため実景を鳥瞰(ちょうかん)的に眺めるのでなく、二つの景観を合成した画面といえる。
また、本図のように興福寺主要諸堂の仏像群を、建築物をあらわすことなく描くのは、春日社寺曼荼羅の多くに共通する表現で、ここでは画面四分の三を興福寺の仏像群が占める。彩色は剥落(はくらく)しているものの、諸尊を描く墨線の下描表現などから制作は鎌倉時代と考えられる。
(北澤菜月)
おん祭と春日信仰の美術. 奈良国立博物館, 2006, p.66, no.49.
図の上方に、春日山と春日社の社景を配し、下方には興福寺の主要な諸堂に安置される仏像―下方から南大門(二王)、中門(二天)、五重塔、南円堂(不空羂索観音)、中金堂(釈迦如来、弥勒如来)、東金堂(薬師如来、文殊菩薩)、西金堂(釈迦如来、十一面観音)、講堂(阿弥陀如来)、食堂(千手観音)、北円堂(弥勒如来)―を表している。こうした春日社寺曼荼羅(興福寺曼荼羅とも)は、京都国立博物館本をはじめとして鎌倉時代の作例が数本知られている。春日社と興福寺との緊密な関係を図示したものと言えよう。表面の剥落が惜しまれるが、当初は濃厚な彩色に裏箔(うらはく)を併用したものと推測される。現状ではかえって下書きののびのある墨線が窺われて興味深い。ちなみに中金堂本尊衣文線の渦紋は、法華寺・阿弥陀三尊像にもみられる古式の表現である。
(梶谷亮治)
春日信仰の美術, 1997, p.26