紫紙に銀泥で界線を引き、金泥で経文を書写する。紫紙金字の法華経という特徴から、国分尼寺経(こくぶんにじきょう)と称された。天平(てんぴょう)十三年(七四一)、各国に七重塔と国分寺(こくぶんじ)(金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)・国分尼寺(法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら))を建立し、あわせて『金光明最勝王経(こんこうみょうおうきょう)』と『法華経』を書写するように命じた聖武(しょうむ)天皇の詔(みことのり)(国分寺建立の詔)が発せられた。この国分寺の塔に納めるため書写された紫紙金字の最勝王経、いわゆる「国分寺経」(奈良時代、八世紀)が伝存する。このため、これに対する法華経として、本品のような紫紙金字経が国分尼寺経と称されたのであろう。しかし本品の料紙は、国分寺経に比べ青みの強い紫色である。また、国分寺経の金泥文字は、乾いた後に瑩(みが)かれたため強い輝きを持つが、本経の金泥にはそうした様子は見られない。さらに、文字は奈良時代の写経生らの謹厳な書風とは異なり、やや崩した柔らかい筆運びが見られる。こうしたことから、実際には少し時代が下る九世紀に書写されたものと考えられる。なお、本品の僚巻(りょうかん)である巻第一(立命館大学蔵)も伝存している。いずれにしても、奈良時代写経の流れを受けた平安時代初期の紫金字経として重要な存在である事に変わりはない。
(斎木涼子)
まぼろしの久能字経に出会う 平安古経展, 2015, p.145
紫色に染めた料紙に銀泥で界線を引き、金泥で経文を書写する。享保2年(1717)に東明寺(大和郡山市矢田)の薬師如来像の体内から発見された経巻である。天平13年(741)に出された聖武天皇の詔により、各国に国分寺・国分寺が建立されたが、同時に国分寺(金光明最勝王護国之寺)の塔には「紫紙金字最勝王経」を、国分尼寺(法華滅罪之寺)には「紫紙金字法華経」を奉納・安置することも命じられていた。本経をこの国分尼寺経とする説もあったが、他の奈良時代の紫紙金字経と比較すると紫紙の色合がやや黒みを帯び、書風も柔らかいことから、平安初期のものと見られる。紫紙金字経は平安時代に入るとあまり制作されなくなる事から、平安時代初期の紫紙金字経の遺例として貴重な存在である。
(斎木涼子)