本図は旧軸木内刳面に暦応二年(一三三九)の修理銘があることから、制作は十三世紀と考えられる。修理銘によれば河内国河内郡浄土院本尊の当麻曼荼羅であった。この銘は「当麻曼荼羅」という古い使用例としても重要であり、十四世紀の段階で当麻曼荼羅を本尊とする寺院が河内に存在したことを示す貴重な作例である。銘文には修復僧慈光、願主僧教仙以下、結縁者の名が連ねられている点も興味深い。実範(じっぱん)や重源(ちょうげん)、忍性(にんしょう)など南都の著名な浄土僧の名が挙げられるほか、末尾には當麻女という名もある。河内浄土院については不明だが、本図は南都ゆかりの念仏聖(ねんぶつひじり)が関わって修復された可能性が高いだろう。本図は五幅一鋪の画絹に描かれている。図像は諸尊を金泥塗とし、九品来迎を立像形式で表すなど浄土宗系とされる傾向を示すが、十六観の阿弥陀を肉身、衣とも白色で表すなど特殊な図像表現も見て取れる。比較的早い時期の写しで図像が確立されていなかったか、あるいは何らかの解釈を反映した表現なのか検討を要する。
(北澤菜月)
當麻曼荼羅完成1250年記念 當麻寺, 2013, p.300-301
当麻曼荼羅とは、本来は奈良県の当麻寺に伝来する綴織の阿弥陀変相図のことをいい、八世紀、中国・唐時代の作と考えられる名品である。浄土信仰の高まりにともない、藤原豊成の娘である中将姫が蓮の糸を用いて織り上げたという伝説を生み、鎌倉時代以降、当麻寺の原本を転写した図が盛んに製作されるようになるが、それらも同様に当麻寺と通称される。本品も鎌倉時代における典型的な転写本である。当麻曼荼羅の図様は、中国浄土教を大成した唐時代の僧、善導の『観無量寿経疏』に基づいている。内陣は阿弥陀の極楽浄土の景観を表したものであり、阿弥陀三尊とこれを取り巻く多くの仏菩薩からなる華座段を中心にして、上辺には楽器や仏菩薩が飛来する虚空ときらびやかな楼閣を、下辺には宝池、宝地、宝樹のほか、諸菩薩たちが楽器や舞を演じる舞楽会などを配置している。外縁には、向かって左に『観無量寿経』の序にあたる部分、すなわち阿闍世(あじゃせ)太子による父王の幽閉とそれを悲しんだ母后韋提希(いだいけ)夫人の阿弥陀仏への帰依を十一区画に描き、右に極楽浄土を観想するための十六の手段(十六観)のうち十三観、下辺に残りの三観を開いて九品来迎図九図として描いている。中世において男女を問わず多くの日本人が憧れた浄土の景観は、この当麻曼荼羅の図様が長くイメージの源泉となってきたといっても過言ではない。
(谷口耕生)
女性と仏教 いのりとほほえみ, 2003, p.222-223