台座下框(したがまち)裏の銘文、および像内納入の『瑜伽瑜祇経(ゆがゆぎきょう)』の奥書により、建長八年に快成(かいじょう)を大仏師として、山城国相楽郡東小田原(現在の京都府木津川市加茂町)の随願寺(ずいがんじ)(廃絶)で、治承四年(一一八〇)の兵火で焼失した東大寺大仏殿の残材を用いて造られたことがわかる。奈良・春覚寺(しゅんがくじ)の地蔵菩薩立像は、本像と同一の条件で快成が造立したもの。明治三十九年(一九〇六)に興福寺で撮影された古写真に本像が写り、この時期には同寺にあったことが近年明らかにされた。光背(こうはい)や台座、彩色(さいしき)と截金(きりかね)を良好な保存状態で残すが、古写真の時点では各手先などを欠いていた。
(内藤航)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2022, p.128, no.170.
像内納入経の奥書(おくがき)および台座裏の墨書(ぼくしょ)により、建長八年に叡尊(えいそん)の弟子寂澄(じゃくちょう)が願主(がんしゅ)となり、快成(かいじょう)を大仏師として山城国相楽郡東小田原(現在の京都府木津川市加茂町)の随願寺(ずいがんじ)(廃絶)で制作したことや、東大寺大仏殿の再建に関係する木材を用いたことがわかる。像容を小作りにまとめた作風や鎬(しのぎ)を立てた衣文(えもん)の彫法には、仏師善円(ぜんえん)の作風に通ずる快成の持ち味が発揮される。近年の研究により明治三十九年(一九〇六)の時点で興福寺に伝来したことが判明した。十三世紀中頃の興福寺では「快」字をもつ仏師の活動が知られ、快成も快慶(かいけい)の流れを汲(く)むと考えられる。
(山口隆介)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, pp.274-275, no.204.
台座や光背はもとより、金銅(こんどう)製の装身具や表面の彩色にいたるまで保存の完好な作品。台座下框(したがまち)裏の銘文や像内に納入されていた『瑜伽瑜祇経(ゆがゆぎきょう)』の奥書により、建長8年(1256)に快成(かいじょう)を大仏師として、山城国相楽郡東小田原(現、京都府木津川市加茂町)において造立された像で、銘文等の筆者は、西大寺を復興した興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)の高弟寂澄(じゃくちょう)であったことや、治承の兵火で焼失した東大寺大仏殿の焼け残りの柱材を用いての造像であったことも知られる。なお快成は同時期に同じ場所において同じ材を用いて、地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)も制作している。
(岩田茂樹)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.105, no.138.
六臂を有し、三眼で牙を生やし、忿怒の相もすさまじい。愛染明王は愛染貪欲をそのまま浄菩提心に昇華させる明王とされ、煩悩即菩提を説く密教の尊像。
像内に納入されていた経典の書写奧書や、台座底面に金泥で書かれた銘文によれば、建長8年正月晦日に、西大寺中興の祖とされる叡尊の高弟であった寂澄が、山城国相楽郡東小田原華台院において、像に納める『瑜伽瑜祇経』の書写を終え、同年3月12日から4月1日までの間に像の彫刻が行われた。作者は仏師快成で、快尊・快弁が小仏師として参加した。
台座銘には「東大寺大仏殿正面取替柱切」を用いて造られたと記されている。治承4年(1180)12月に平重衡の率いる軍兵の放った火により、聖武天皇本願の東大寺大仏殿は焼け落ちた。その再建は建久6年(1195)に成ったが、その節に取り替えられた柱の余材を用いた造像らしい。像を詳しく調べると、台座の框に何ヶ所かの干割れがあり、その部分に布を貼って補強した上で用いている。つまり問題のある材を無理して使っているわけであり、焼け残りの柱材を転用した可能性が高いように思われる。むろん、それによって材の聖性ないし霊性が増すと考えられたのだろう。
ちなみに奈良県宇陀市室生村の春覚寺の地蔵菩薩像もほぼ同時に造られた像で、やはり大仏殿の古材を使って造られている。
(岩田茂樹)
円光背を背に、宝瓶座に坐す三目六臂の愛染明王像。像高二六センチ余の小像だが、本体・台座・光背のみならず、表面の彩色・切金(きりかね)文様や各種の金銅製装飾にいたるまで、きわめて保存状態のよい作品である。像本体は一木造らしく、面部を矧(は)いで、玉眼(ぎょくがん)をはめ、体部は背中から内刳(うちぐ)りして、愛染明王を説く唯一の経典である『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜衹経(こんごうぶろうかくいっさいゆがぎょう)』一巻を納め、蓋板をしている。また台座の下框裏には黄土で描いたとみられる銘記が認められる。納入経典奥書や台座銘によって製作の経緯をみると、建長八年正月晦日に、西大寺を拠点に釈迦信仰を鼓吹した叡尊(えいそん)の高弟である寂聴(じゃくちょう)が、山城国相楽郡東小田原華台院において『瑜伽瑜衹経』の書写を終え、同年三月十二日から四月一日までの二十日間で像の彫刻が行われた。作者は大仏師刑部法橋快成(かいじょう)・小仏師快尊(かいそん)・快弁(かいべん)、願主は寂澄で、銘文の筆者も兼ねていた。春覚寺地蔵菩薩像と同日の着手、完成は本像が一日早かったこともわかる。興味深いのは、治承の兵火で焼失した大仏殿の正面の取替柱をもって御衣木(みそぎ)をしたと明記されていることで、罹災後七十年余を経たこの頃にあっても、大仏殿の遺材がなおも大事に保管されていたこと、その再利用が宗教者の手によってなされ、意義深いことと考えられていたことがわかる。作者快成の出自は確定できないが、本像の作風および銘記のスタイルは善派(ぜんぱ)のものに近い。また寂澄の師である叡尊が率いた経団は、善円(善慶)・善春らいわゆる善派の仏師を重用した。このようなことから、快成ら三人の「快」字を共有する仏師たちも、善円に連なる可能性が指摘されている。善派の仏像は少年の相を思わせる清純な趣致に特徴があり、本像にもそのような傾向を見て取ることができよう。
(岩田茂樹)
御遠忌八百年記年大勧進 重源―東大寺の鎌倉復興と新たな美の創出―, 2006, p.211
赤色の日輪光を背負い、宝瓶(ほうびょう)上の赤色蓮華座に坐す三目六臂(ひ)の愛染明王坐像。像内納入の『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』の奥書および台座下框(したがまち)裏銘によると、叡尊(えいそん)の高弟である寂澄(じゃくちょう)が願主となって、東大寺大仏殿正面の取り替え柱を御衣木(みそぎ)として、大仏師刑部法橋快成が中心となって、山城国相楽郡随願寺東小田原華台院で建長8年(1256)に造立されたことが判明する。まるまるとした顔には忿怒相ながらもどこか童子のような柔らかさがあり、体躯もこじんまりとまとまりよく、細部もきっちりと彫り出しており、全体に激しさを抑えバランス良く美しくまとめ上げた作風が特色である。装身具や光背、台座も当初のものが伝わり、総体として技巧的な整いを見せる。快成は本像とほとんど同時期に、同じ場所で、やはり同じく大仏殿の古材を用い、寂澄を願主として、奈良・春覚寺木造地蔵菩薩立像を造立しているが、作風も本像同様おとなしいまとまりを示し、作者快成の力量が知られる。一木造で、背中に納入経を納めて蓋板(ふたいた)をし、面相部は割り放して玉眼を入れる。
(礪波恵昭)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.298, no.94.