少年を思わせるみずみずしい姿の十一面観音像。像内内刳(うちぐり)面の墨書(ぼくしょ)と納入の『金剛般若波羅蜜経(こんごうはんにゃはらみつきょう)』により、春日信仰を背景として承久三年に善円(ぜんえん)が制作したことがわかる。アメリカ、アジアソサエティー地蔵菩薩像、東京国立博物館文殊菩薩像と本像は、春日本地仏(ほんじぶつ)として造立された一具と考えられている。また、本像とアジアソサエティー像の銘記にみえる興福寺僧範円(はんえん)は、建保三年(一二一五)建立の同寺四恩院十三重塔の供養導師(くようどうし)を務めており、ここに安置された春日本地仏との関連が指摘されている。善円は奈良を中心に活動した仏師で、本像はいま知られる最初期の作。
(内藤航)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2022, p.124, no.163.
純真無垢な少年のごとき表情の菩薩像。ヒノキ材の割矧造(わりはぎづくり)で頭上面・左肩以下・表面仕上げ等は後補だが、補彩の剝落(はくらく)箇所に当初の彩色(さいしき)と截金文様(きりかねもんよう)がみえる。像内墨書と納入経により承久三年の善円(ぜんえん)作とわかる。さらに当時興福寺権別当(ごんのべっとう)だった範円(はんえん)の名や春日明神(かすがみょうじん)の加護を祈請(きしょう)する文言もあり、アメリカ、アジアソサエティー地蔵菩薩像および東京国立博物館文殊菩薩像と春日本地仏(ほんじぶつ)として元来一具をなしたとする説がある。柔らかな面部や天衣のかけ方は建久年間(一一九〇〜九九)の東大寺中性院(ちゅうしょういん)弥勒菩薩像と通じ、両像の作者に系統的な繫(つな)がりが想定できる。
(山口隆介)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, pp.271-272, no.184.
純真無垢な少年のごとき表情の菩薩像。ヒノキ材の割矧造(わりはぎづく)りで玉眼(ぎょくがん)を嵌入(かんにゅう)する。頭上面・左肩以下・表面仕上げ等は後補だが、補彩の剥落(はくらく)箇所に当初の彩色(さいしき)と截金文様(きりかねもんよう)がみえる。
解体修理時に像内ほぼ全面にわたる墨書銘と金剛般若波羅蜜経(こんごうはんにゃはらみつきょう)一巻が見出され、承久三年(一二二一)の善円(ぜんえん)(一一九七~一二五八)作と判明した。さらに当時興福寺権別当(こうふくじごんのべっとう)だった範円(はんえん)の名や、春日明神(かすがみょうじん)の加護(かご)を祈請(きしょう)する文言も確認されており、銘記の内容が共通するアメリカ・アジアソサエティー地蔵菩薩像及び善円風の顕著な東京国立博物館文珠菩薩像を含めた三?(く)を、春日本地仏として元来一具をなしていた五?中の三?(三宮(さんのみや)・四宮(しのみや)・若宮(わかみや))とする説がある。
建保三年(一二一五)建立の興福寺四恩院(しおんいん)十三重塔には、解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)(一一五五~一二一三)以降に流布した釈迦・薬師・地蔵・観音・文珠からなる「五社垂迹」(『興福寺濫觴記(らんしょうき)』)、四恩院内の法華堂(ほっけどう)にも同様の五尊があった(『尋尊大僧正記(じんそんだいそうじょうき)』寛正二年〔一四六一〕九月十四日条)。十三重塔の供養導師(くようどうし)は範円その人で、本像が塔の建立後ほどなく造立されたことからも、その関連には要検討の価値があろう。
善円は鎌倉時代後期に南都を居天に活躍した仏師。本像を現存最初期の遺品として、宝治元年(一二四七)の西大寺(さいだいじ)愛染明王像までの事積がたどれ、その二年後に同寺釈迦如来像を制作した善慶(ぜんけい)は、生年の一致から善円の改名とされる。師承(ししょう)関係は不詳ながら、本像の柔らかな面部や右前膊(ぜんぱく)外側でたるむ天衣(てんね)の懸(か)け方が、建久年間(一一九〇~九九)の東大寺中性院(とうだいじちゅうしょういん)弥勒菩薩像と通じ、両像の作者に系統的な繋(つな)がりが想定できる。
(山口隆介)
創建一二五〇年記念特別展 国宝 春日大社のすべて. 奈良国立博物館, 2018, p.330, no.164.
純真無垢(じゅんしんむく)な少年を思わせる表情が印象的な、像高一尺寸余りの十一面観音像。解体修理の折に像内ほぼ全面にわたる墨書銘(ぼくしょめい)と金剛般若羅蜜経(こんごうはんにゃはらみつきょう)一巻が見出され、承久三年(一二二一)の年紀とともに仏師善円(ぜんえん)(一一九七~一二五八)の名が確認された。善円は鎌倉時代前期に南都を拠点に活躍した仏師。本像を現存最初期の遺品として宝治元年(一二四七)の奈良・西大寺愛染明王像(あいぜんみょうおうぞう)までの事績がたどれ、その二年後に同じく西大寺の釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)を制作した善慶(ぜんけい)は、生年の一致から善円の改名と考えられている。師承(ししょう)関係は不明ながら、本像にみる面部の柔らかい肉付けや右前膞(ぜんぱく)外側にたるみをつくる天衣(てんね)のかけ方が、建久年間(一一九〇~一一九九)の東大寺中性院弥勒菩薩立像(ちゅうしょういんみろくぼさつりゅうぞう)と類似することから、両像に系統的なつながりを想定する傾聴すべき指摘がある。像内銘及び納入経の奥書には、当時興福寺権別当(ごんのべっとう)であった範円(はんえん)をはじめとする多数の結縁者名(けちえんしゃめい)や春日明神(かすがみょうじん)の加護を祈請(きしょう)する文言が含まれており、同じく善円作で元仁二年(一二二五)から嘉禄二年(一二二六)の米国・アジアソサエティー地蔵菩薩像にも類する銘記が認められる。この二像に、銘記未確認ながらやはり善円初期の作風が顕著な東京国立博物館文殊(もんじゅ)菩薩像を加えた三躯(く)を、春日本地仏(かすがほんじぶつ)として元来一具をなしていた五躯中の三躯(三宮・四宮・若宮)とみなす魅力的な見解がある。建保三年(一二一五)に建てられた興福寺四恩院(こうふくじしおんいん)十三重塔には、貞慶以降に流布(るふ)した釈迦・薬師(やくし)・地蔵・観音・文殊からなる「五社垂迹(すいじゃく)」が安置され(『興福寺濫觴記(こうふくじらんしょうき)』)、四恩院内の法華堂(ほっけどう)にも同様の五尊があった(『大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)』寛正二年〔一四六一〕九月十四日条)。この種の春日本地仏(ほんじぶつ)の造像例として重要だが、注目すべきは十三重塔の供養導師(くようどうし)を本像及びアジアソサエティー像に主要な結縁者の一人として名を連ねた範円が務めたことであり、本像が塔の建立(こんりゅう)後ほどなくして造立されていることからも、その関連は改めて検討する価値があろう。
(山口隆介)
解脱上人貞慶 鎌倉仏教の本流 御遠忌800年記念特別展, 2012, p.241
少年のような可憐な表情をもつ十一面観音像。現状は黒く古色をかけられているが、腹部の条帛(じようはく)の一部に当初の華麗な彩色と截金(きりかね)が少し見える。像内内刳(うちぐり)部の墨書銘と、納入されていた『金剛般若波羅蜜経(こんごうはんにゃはらみつきょう)』の奥書から、春日信仰を背景に、承久3年(1221)に仏師善円によって造立されたことがわかる。米国・アジアソサエティーに所蔵される地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)などとともに、春日の本地仏(ほんじぶつ)として制作されたものとみられている。なお十一面観音を本地とするのは春日四宮である。
(岩田茂樹)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.102, no.132.
像高約一尺五寸、すなわち等身の四分の一の大きさの像である。現在、像の表面のほぼ全体に古色が塗られるが、当初は彩色・切金仕上げであったことが、古色の剥落した箇所から判明する。像内内刳部に十一面観音種子「キャ」を多数と、般若心経及び願文を墨書する。承久三(一二二一)年の年紀や、権僧正範円ら願主、作者とみられる大仏子(ママ)善円の名も見える。また金剛般若波羅密経一巻が納入され、その奥書にも同じ年紀と願文や「大仏師善円」らの名が認められる。経典の紙背には十一面観音の印仏が連続して捺され、その間隙に多数の結縁交名が墨書されている。像内銘、納入品ともに願文中に春日大明神への帰依を表明する意味の文言が含まれ、また興福寺関係の僧の名も確認できることから、本像は春日三宮の本地としての十一面観音像である可能性が高い。善円は西大寺律宗の僧たちとの関わりを深くもった南都の仏師。その作品は少年のような清純な表情をもつみずみずしい作風を特徴とする。銘記から彼の作であることのわかるアメリカ・アジアソサエティー地蔵菩薩立像と、その作風からやはり善円作の蓋然性が高いことが指摘される東京国立博物館文殊菩薩立像は、本像と像高をほぼ同じくする。また本像とアジアソサエティー像は、いずれも春日明神の加護を願う内容の願文を有し、かつ結縁者の名も共通するところがあること等から、これら三軀の像が春日本地仏像一具の五軀のうちの三軀ではないかと推測する見解がある。
(岩田茂樹)
神仏習合-かみとほとけが織りなす信仰と美―, 2007, p.292
像内及び納入経に承久3年(1221)の年紀と仏師善円の名が記される。現在表面の大部分が後補の漆箔に覆われ細かな彫り口が損なわれているのが残念であるが、均整のとれた体躯、切れ長の目、小ぶりで愛らしさも感じられる鼻や口元、多めに配された衣褶を持つ柔らかい着衣など、善円のほぼ同時期の作例である木造地蔵菩薩立像(米国・アジアソサエティ)と極めて似た作風を示す。像内銘記や納入経奥書より、「春日権現大明神」などの加護を受け、「出離生死」や「法界平等利益」などを祈願して、多数の結縁(けちえん)によって本像が造られたことがわかるが、その内容や人名にやはり木造地蔵菩薩立像の銘文と共通点が多いことが指摘されている。ヒノキ材の前後割矧造で、三道(さんどう)下で割首とし、玉眼を嵌入する。像底などから判断すると、もとは肉身部は金泥(きんでい)塗り、着衣部は彩色・切金が施されていたとみられる。
(礪波恵昭)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.297, no.90.