さとりの道を求める旅に出た善財童子(ぜんざいどうじ)が補陀落山(ふだらくせん)で観音菩薩(かんのんぼさつ)にまみえるという、『華厳経(けごんきょう)』入法界品(にゅうほっかいぼん)に説かれる一場面を水墨で描く。竹林が茂る深山幽谷の中、白衣をまとった観音菩薩が坐禅瞑想し、小岩上で合掌礼拝する善財童子と相対する。賛者の約翁徳倹(やくおうとくけん)(一二四五〜一三二〇)は、中国に渡って阿育王寺(あいくおうじ)や天童寺(てんどうじ)で学び、帰国後に南禅寺(なんぜんじ)などの住持を務めた禅僧。本図への着賛は、帰国後に建長寺(けんちょうじ)内の長勝寺の開山となった永仁四年(一二九六)以降の晩年と考えられる。日本で描かれた現存最古の白衣観音図(びゃくえかんのんず)の一つとして貴重。
(谷口耕生)
奈良博三昧―至高の仏教美術コレクション―. 奈良国立博物館. 2021.7, p.273, no.195.
滝が落ちる深山幽谷の中、水辺に突き出た岩上に、白衣を纏った観音菩薩が禅定印を結んで坐禅瞑想をする姿を描く。観音は大きな月輪を背負い、傍らには揚柳をさす水瓶が置かれ、背後の懸崖には竹林が茂る。向かって左下を向く観音の眼差しの先には、水面を挟む小岩上で合掌礼拝する善財童子の姿がある。観音や善財童子が白描風の細く謹直な線描で描かれるのに対し、背景は墨の濃淡を使って巧みに大気を表現しており、日本の初期水墨画にあって高い水墨技法の習熟を示している。これは、善財童子が南海上の補陀落山(ふだらくせん)を訪れ、観音菩薩にみえるという、『華厳経』入法界品に説かれる一場面を描いたものである。賛者の約翁徳倹(一二四五~一三二〇)は、鎌倉・建長寺の開基である蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)(一二一三~七八)の法嗣。入元して阿育王寺の寂窓有照や天童寺の石帆惟衍をはじめ、中国五山に暦山して帰国。延慶三年(一三〇一)、没した一山一寧の後を継ぐ形で南禅寺の住持となっている。本図に着賛したのは、帰国後に建長寺内の長勝寺の開山となった永仁四年(一二九六)から元応二年(一三二〇)に示寂するまでの時期と考えられる。日本で描かれた現存最古の白衣観音図として極めて貴重な作例である。
(谷口耕生)
聖地寧波 日本仏教1300年の源流~すべてはここからやって来た~, 2009, p.307
白衣をゆったりと着けて岩上に静坐する観音の像であるが、左下にそれを礼拝する童子がいることから、『華厳経(けごんきょう)』「入法界品」に説かれる善財童子(ぜんざいどうじ)の善知識歴参のうち、補陀落山(ふだらくせん)の金剛宝石の上に結跏趺坐するという観音を表すものとわかる。背後の竹林や瀧も経文に「華果樹林は皆遍満し、泉流地沼は悉く具足す」とあるのに対応し、水墨画に慣用の題材で代表させている。観音の傍に楊柳を挿した水瓶が配され、岩下に水面が広がるなどの点でも、楊柳観音や水月観音と称されるものと図像上親密な関係にあるが、水墨画の流行に伴って、白衣の清澄さに興味をもって描かれ、特に禅林で好まれた。図の上部に七言絶句の賛を記すのは、鎌倉の諸寺や南禅寺に住した約翁徳倹(やくおうとっけん)(1244~1319)であり、彼が宋から帰国した13世紀末から示寂までの間にこの図が描かれたと推定される。日本の初期水墨画の一例であり、とりわけ白衣観音としては最古の遺品といえるが、すでにかなり熟達した水墨技法を用いて、奥深い空間を表現しているのは特筆される。
(中島博)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, pp.319-320, no.178.