岩場に敷き詰め重ねられた草の上に足を崩して座り、正面を向く白衣観音である。 南方にあるという観音の住処、補陀落山に居る姿で表されている。白衣観音は白い衣に頭から身を包む観音で、その姿は中国でみられるようになり宋代には盛んに描かれた。中国のみならず、朝鮮半島や日本にも伝えられ、観音への信仰とともに多くの像が生み出されている。
本図の観音は釣りあがった眉や目、胸の高い位置まで上げられた僧祇支など、顔つきや服制が珍しく、また脇に柏の葉のついた樹木が見えるなど補陀落山の景観描写も中国・宋元代や日本の鎌倉から室町期に多数描かれた図像とは少し異なる。他作品では定型化する部分に変容が認められるため、一般的な補陀落山の白衣観音の図像が成立した後に、それを逸脱して表された作品とみなされる。
その特殊さから長らく朝鮮半島、高麗の作例とされてきたが、高麗時代製作とする積極的根拠は見出しにくく、景観描写などから中国・元末明初期の製作である可能性も指摘されている。
向かって右上の墨書は、観音に捧げられたその功徳を述べる賛。賛者の海燁については不明だが、「丁巳」は画風から洪武10年(1377)に比定されている。
(北澤菜月)
岩上草座に坐する白衣観音、その右方には岩崖と柏樹、作法には二竿の細竹と揚柳を挿す水瓶、これらが水墨・着色の手法を併用して描かれている。観音の衣に注目すれば、僧祇支は胸前をも覆っており、白衣の裾は円弧の繰り返しを意識して返りの部分が不可解なものとなっている。又、細竹も下方が鉤勒で、上方が墨竹で表されている。すなわち、一画面中に諸要素が混淆し複雑な様相を呈しているのである。職業画工の制作とはかけ離れた本図は、多くの作例が確認される中国の宋・元時代の禅余系の観音像や華麗な着色の韓国・高麗時代の観音像の範疇には入らない。賛者の海燁については不明であるが、本図はその特異さ故に高麗画として認識されている。しかし、それを諸要素の混淆と捉えるならば、背景表現、特に岩皴や草座における焦墨の使用等は元末明初の文人画の表現を想起させるものがあり、丁巳の年記から本図を明初・洪武十年(一三七七)頃の制作と見なすこともできよう。
(板倉聖哲)
聖と隠者―山水に心を澄ます人々―, 1999, p.209-222