仏教の祖、釈迦は沙羅双樹の下に横たわり、この世を離れ涅槃に入る時を迎える。この場面を描くのが仏涅槃図で、主に涅槃会の際に懸け法要が行われる。本図は画面右側に「慶元府車橋石板巷陸信忠筆」との墨書銘があり、これにより寧波が慶元府と呼ばれた慶元元年(一一九五)から至元十四年(一二七七)の間、寧波の陸信忠によって描かれた仏涅槃図であるとわかる。宝台上に横たわる釈迦の周囲に十人の仏弟子(十大弟子か)が参集し手前には香炉がのった供養台が用意され、その左右には舞踏する胡人風の二人を表す。上空からは釈迦の母、摩耶夫人が涅槃の時と聞きつけ舞い降りる。この作品は陸信忠作品のなかでも入念な作で、鮮やかな彩色が大きな画面上に冴える優品である。また、図像にも特色がある。まず沙羅双樹を『観無量寿経』に典拠がある極楽浄土の七層の宝樹として表す表現、また釈迦の前方に湧雲を描くことも珍しい。これは入滅した釈迦のいるその場が、涅槃により浄土化するかのような表現である。また涅槃図の前に供養台を置きその周囲の僧が合掌するのも特色で、涅槃後の供養を描きこむと考えることもできるが、そこには実際に執り行われた涅槃会における供養のイメージが反映しているとも考えられる。涅槃供養と阿弥陀信仰の併存は、日本では源信に認められることが知られる。寧波で描かれた本図は、天台の一台拠点であった延慶寺の影響下で行われた可能性が指摘されている。もと愛知・宝珠院に伝来した作品で、それ以前は隣接する津島神社の牛頭天王に奉納されたという。
(北澤菜月)
聖地寧波 日本仏教1300年の源流~すべてはここからやって来た~, 2009, p.297
釈迦が跋堤河のほとり沙羅双樹の間に入滅する様子を表したもの。仏伝中の重要な一場面である。涅槃を表した作例は、法隆寺五重塔塔本塑像をはじめ早くからわが国で造像されており、また涅槃図を本尊像とする涅槃会も平安時代の初めには恒例化していた。涅槃図は中国からの影響を受けつつ各時代宗派を通じて盛んに制作され、独自の展開をした。
本図は涅槃図の中でももっとも特異な形式のもので、中国・南宋代の貿易都市・寧波で描かれ、わが国に請来された。沙羅樹が二本の宝樹のように描かれ、また釈迦の周囲の弟子衆にはさほど悲しみの表情はなく、胡人風の人物が香炉をはさんで涅槃を賛嘆するかのごとく踊るのも異例である。こうした図様が成立した背景に、当時の寧波の成熟した信仰環境を想定する意見がある。
画面向かって右中程に「慶元府車橋石板巷陸信忠筆」の小楷落款があって、寧波が慶元府と呼ばれていた頃(1195~1276)に職業的画工(仏画師)とされる陸信忠(工房)によって制作されたことがわかる。濃密な彩色と細勁な線描、細緻な彩色文様をあわせ持つきわめて強い表現の仏画であり、中間色を多用したであろう先行仏画からの変貌を感じさせる作例である。陸信忠の款記のある作品の中では、当館の十王図とともにもっとも上質の作例である。
なお、表具上部に「天王御宝物」の墨書がある。愛知・津島神社別当寺宝寿院に伝来した。
(梶谷亮治)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, pp.314-315, no.164.