浄土真宗の開祖、親鸞(一一七三~一二六二)の肖像で、黒い獣皮の敷物を表徴として、「熊皮御影」と通称されている。顔立ちは、似絵で有名な藤原信実の息、専阿弥陀仏の手になる寿像として知られる、いわゆる「鏡御影」(西本願寺)などと基本的に似ているが、外側へ跳ね上がる形を強調した眉に特徴を示し、親鸞像の形式化が進んだ時期の作と考えられる。表装背面貼付の題箋に、四句文(図上部色紙形の賛詩)の筆者は「□(尊)□親王」(青蓮院門跡で能書として知られる尊円親王と思われる)、絵は浄賀法橋と記されているが、根拠は明らかでない。浄賀(一二七五~一三六五)は信濃康楽寺二世で、親鸞聖人伝絵を初めて描いた絵師とされ、以後形成された画系を康楽寺派と称し、主に浄土真宗の絵画製作に携わった。なお、図の周囲の黒地に円文と雲文と配した表装は、図と連続する絹に描かれており、当初のものである。
(中島博)
女性と仏教 いのりとほほえみ, 2003, p.238
親鸞聖人(1173~1262)は、はじめ青蓮院慈鎮により得度し、比叡山や南都で修学した後、法然に従って専修念仏の門に入り、師の没後『教行信証』を著して浄土真宗を開創した。
本図は熊皮御影(くまがわのみえい)として知られる画像で、親鸞は首に帽子を巻き袈裟を着け、両手で数珠をまさぐる姿で、上畳に敷いた熊皮に坐している。その前には杖が横たえられている。安城御影(あんじょうのみえい)が敷物を狸皮とし、杖のほかに火桶と草履を置くが、本図にこれはない。いずれにしても親鸞の活発な布教活動を象徴する画像であり、老貌の親鸞が静かに坐す姿には祖師を尊敬のまなざしで見る弟子の視線が感じられる。画面右上の色紙形に七言四句の偈「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能莊嚴 臨終引導生極樂」がある。これは、親鸞が六角堂にこもった際に救世観音が夢に現れて告げた偈句であるという。絵伝にも録されている。
図は、親鸞の面貌をよく写しているが、安城御影の鋭い面相線はなく、鏡御影(かがみのみえい)の像主を眼前にしたごとき現実味のある表現からも離れている。おそらくやや時代の降る鎌倉時代終わり頃、教団の成熟期にかかるころの制作と思われ、表現はむしろ古式の高僧像の伝統的技法に従っていると思われる点が注目される。
巻留めに「□信房御影 [四句文尊円親王/繪浄賀法橋]」とある。これによれば画中の偈は青蓮院流尊円(1298~1356)により、画筆者は浄賀(1275~1356)とされる。浄賀は覚如(1270~1351)が永仁3年(1295)に最初の「善信上人親鸞伝絵」を描かせた絵師である。その画系は康楽寺派と呼ばれ真宗の絵伝・祖師像を描いた。但し、浄賀本人の作品は残っておらず、これが同人唯一の現存作品かどうか問題が残る。
なお、本図は天地左右に当初の描表具を残している。
(梶谷亮治)
奈良国立博物館の名宝─一世紀の軌跡. 奈良国立博物館, 1997, p.318, no.173.