肉身の色を四天王像中の多聞天(たもんてん)のように青色としないことから、独尊の毘沙門天として造立されたとみられる。厳しい表情ながら、目頭を角張らせたいわゆる瞋目(しんもく)としない。端正で誇張のない写実的な面貌をもち、均整のとれた姿勢の像であるが、これと対照的に二体の踏みつけられる邪鬼には滑稽味(こっけいみ)があり、作者の技量の幅の広さがうかがえる。静岡・願成就院(がんじょうじゅいん)毘沙門天像に始まる運慶様(うんけいよう)の作と位置づけられ、鎌倉時代十三世紀前半の慶派(けいは)周辺の仏師による制作とみられる。表面の彩色(さいしき)や截金(きりかね)文様は当初のものである。
(岩井共二)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2022, p.132, no.175.
個人所蔵を経て、最近当館の所蔵に帰した像。奈良の古美術商玉井大閑堂(たまいたいかんどう)(久次郎(きゅうじろう))所蔵品の売立目録(うりたてもくろく)『寧楽美術工芸品展観目録』(東京美術倶楽部、昭和四年)に掲載されるところから、奈良周辺の寺院に旧蔵されていた可能性も想定される。頭部が落ち込んでやや像容を損ねていたが、直近の修理により往時の姿を回復した。
左手を挙げて宝塔(ほうとう)を捧げ、視線をそちらへ向ける。右手は高く掲げ、戟(げき)を執(と)る。男性的な風貌を示すが、眉根を寄せた念怒相とはしないこと、腰を左にひねりつつも右足を遊脚とはせず足先を開くこと、二匹の邪鬼上に立つことなどは、運慶が文治二年(一一八六)に制作した静岡・願成就院(がんじょうじゅいん)の毘沙門天像を彷彿(ほうふつ)させ、本像も鎌倉時代前期の慶派仏師の手になると推測される。ただし願成就院像では右肘を側方に強く張って戟を執るのに対し、本像では右腕を高く挙げており、この点は高知・雪蹊寺像(せっけいじぞう)に通ずるとみるべきであろう。
肉身は淡紅色、すなわち肉色とし、着衣・甲(よろい)は彩色および漆箔の地に彩色ならびに截金による各種の文様を表している。截金は襷格子文(たすきごうしもん)や七宝繋(しっぽうつな)ぎ文などの幾何学文様が多く、一方で花文等の植物文は彩色で描かれるが、下甲(したごう)(両腋辺の部位)には彩色による亀甲文(きっこうもん)も認められる。
最下段の框座は新補だが、その上の州浜座(すはまざ)ならびに二邪鬼(にじゃき)は当初のものである。邪気は青鬼と赤鬼で、毘沙門天を見上げる青鬼は玉眼(ぎょくがん)、下向きの赤鬼は彫眼(ちょうがん)である。また青鬼は頭髪を巻髪(けんぱつ)とし、赤鬼は垂髪(すいはつ)として、これも表現を違えている(いずれも截金で毛筋を表す)。背骨やその両側の筋肉の表現は写実的であり、複雑な姿形を破綻なくまとめた作者の技量が賞される。
(岩田茂樹)
毘沙門天-北方鎮護のカミー. 奈良国立博物館, 2020.2, p.159, no.19.