福徳をもたらす女神・吉祥天(きちじょうてん)の起源は古代インドにあるが、東アジアでは中国の貴婦人に範をとった姿の像が流布した。本像もその一例で、非常に豊満な体つきと華やかな着衣の荘厳(しょうごん)が目を引く。左手に宝珠(ほうじゅ)(亡失)を執り、須弥座(しゅみざ)に腰掛ける形式は『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』に基づく吉祥天曼荼羅(まんだら)の中にみられるもので、彫像の類例としては、暦応3年(1340)に「金堂本尊」として制作された興福寺像がある。興福寺像は付属の厨子(ずし)に描かれた諸図像とともに曼荼羅を構成しており、本像も同様の設(しつら)えを伴っていた可能性がある。
(稲本泰生)
なら仏像館名品図録. 奈良国立博物館, 2010, p.110, no.139.
吉祥天はインド神話に登場するヴィシュヌの妃、ラクシミー像が祖形であり、福徳を司る女神として信仰され、豊艶な貴婦人の姿をあらわす遺品が多い。『金光明最勝王経』の「大吉祥天女品」にその功徳が説かれ、最勝会(さいしょうえ)や吉祥悔過会(きちじょうけかえ)で祀られた。吉祥天の彫像の一般的な形制は左手に宝珠をとり、右手は施無畏印を結んでいる(『陀羅尼集経(だらにじっきょう)』)。ところが、左手は同じように宝珠を持つものの、右手は膝上で与願印にあらわす遺品も知られている。これは『大吉祥天女誦法』に説かれる印相で、山梨・福光園寺像(廣喜三年=一二三一年)が早い例で、南北朝時代の遺品に興福寺像(暦応三年=一三四〇)がある。興福寺像は奈良仏師寛慶の作で、本像と同じ倚像形式であることも注目される。本像は髻(もとどり)を結び、地髪を大束にして左右に振り分け、長袖及び鰭袖の衣(右衽)を着け、宣字座形式の台座に腰掛ける。天衣は両肩からかかり、腕の内側に垂れる。華やかな彩色で全身を飾る。体奥の深い体型や要約的な肉取りなども興福寺像と酷似しており、同じく奈良仏師の手になるものと推定される。頬の豊かな顔、吊りあがった眼の激しい視線などは鎌倉末期南北朝時代の南無仏太子像の容貌に通じる。製作は興福寺像よりも遡り、鎌倉時代と推考される。興福寺像は当初の厨子絵とともに吉祥天曼荼羅を立体的に構成したものであり、両扉に梵天・帝釈天を、そして奥壁に七宝山と雲上の白象を描いている。同じ姿をあらわす本像は興福寺像をミニチュア化したようなところがあり、同様に吉祥天曼荼羅の中尊であった可能性も考慮されよう。
(鈴木喜博)
神仏習合-かみとほとけが織りなす信仰と美―, 2007, p.310